テンペスト:シェイクスピアのユートピア

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「テンペスト」はシェイクスピアの最後を飾るに相応しい作品といってもよい。幻想的な雰囲気は「真夏の夜の夢」を、また冒頭の嵐のシーンは「十二夜」を連想させ、しかも完成度が高い。主人公のプロスぺロが敵に復讐して王権を回復するところは一連の歴史劇を思わせる。悲劇を別にすれば、それまでのシェイクスピア劇を特徴づけていたものが、濃縮された形で再現されている。その意味でこの作品はシェイクスピア劇の集大成と位置付けることもできる。

シェイクスピアはこの作品を、イギリス船のバミューダ島での遭難事件に触発されて書いたらしいのだ。

1609年の夏、アメリカの新天地ヴァージニアに向けて、400人の植民者たちを乗せた船団が出発したが、そのうちの一隻「海の冒険(Sea Venture)」号がバミューダ島の岩礁地帯で難破するという事故が起きた。

乗員は全員無事に上陸し、島で9か月間暮らしたのち、難破船の残骸で小舟を作り、ヴァージニアに向けて脱出した。それでも二人の人物は島に残ることを選び、バミューダ島最初の恒久的植民者となったのだった。

1610年、イギリスに戻った船員の一人ストレイチーが著した「遭難記(True Reportory of the Wreck)」が、ロンドンの社交界の話題となった。シェイクスピアはどうもこれを読んで、想像力を掻き立てられたらしいのである。

というのも1611年に書かれた「テンペスト」の嵐の描写は、ストレイチーの描写とそっくりなのだ。シェイクスピアは、嵐の描写ばかりではなく、バミューダ島の描写にも想像力を掻き立てられたに違いない。海の果てにある未開の島が、シェイクスピアにとっては一種のユートピアとも、あるいは文明の原点とも映ったに違いないのだ。

文明人が無人島に漂着して野生の世界と接するという点では、ロビンソン・クルーソーと似ている。しかしロビンソン・クルーソーがあくまでも文明人に光をあてた冒険の物語であるのに対して、テンペストはそれにとどまってはいない。ここで描かれているのは、文明はいかにして始まったかという、壮大な歴史物語なのだ。

この劇は、午後2時頃に起きた嵐の場面から、一同が夕食に取り掛かるまでのわずか数時間のことを描いているに過ぎない。だから、ヤン・コットもいうように、観客にとっては、劇の中で進行する時間と現実の時間とが一致して見える。眼前の出来事は観客の生きている現実の時間と並行して同時進行していくわけなのだ。

それなのに、そこに文明発祥の歴史を見ようとするのはアナクロニックかもしれない。

このアナクロニズムを解消するために、シェイクスピアは様々な工夫をしている。その一つがキャリバンという不思議なキャラクターだ。キャリバンは四足のグロテスクな生き物として描かれている。もともとは島に住んでいた魔女が魔物と交わって生まれた子供とされている。だから文明人の目から見れば、わけのわからぬ怪物だ。

しかしキャリバンの方では、母親を含めた自分たちこそこの島の本当の主人公だと考えている。もともとこの島で平和に暮らしていたところを、プロスペロがやってきて、自分たちを魔法で屈服させた。だからプロスペロは侵略者なのであり、自分たちは被害者なのであるということになる。プロスペロはキャリバンのそんな言い分を認めない。キャリバンは野蛮の象徴なのであり、自分たちは文明人として、この島に文明を持ち込んだのだ。

このように、キャリバンとプロスペロの対立関係のうちに、文明発祥の歴史的な起源を暗示させているわけである。

プロスペロ父娘は、キャリバンとの関係では文明を代表しているが、この島にうちあげられた人々との関係においては、原始を代表している。彼らはこの島にあっては、野生と文明という両義性をまとっているわけだ。

こんな訳でこの劇には、野生と文明との対立が二重に描かれている。この二重性にあっては、プロスペロは完全な文明を代表するわけにはいかなくなる。曖昧な文明性が彼には付きまとう。彼の性格はキャリバンとの関係では文明側に傾くが、遭難した人々との関係では、野生に傾く。それ故か、プロスペロは半ば神秘的な存在として描かれる。彼は魔法の杖を持ち、また妖精アリエルに命じて船を難破させるのだ。

この劇の中で、完全に文明人であるのは難破した人々だ。その人々を代表してゴンザーロはこういうのだ。

  ゴンザーロ:わたしがこの島の統治をまかされたとしたら
   ・・・
   その国家では、万事普通の国とは反対に執り行いと思います
   そこでは交通と云うものはなく
   総理大臣も存在せず
   学問も無用であります
   貧富の差はゆるさず
   したがって人が人に仕えるということもない
   契約とか相続とかうるさい法律問題もない
   金属も穀物も酒も油も使用を禁じ
   職業と云うものもなくします
   男も女ものんびりと遊んで過ごし
   君主権なるものもなくします
  GONZALO:Had I plantation of this isle, my lord,--
   ・・・
   I' the commonwealth I would by contraries
   Execute all things; for no kind of traffic
   Would I admit; no name of magistrate;
   Letters should not be known; riches, poverty,
   And use of service, none; contract, succession,
   Bourn, bound of land, tilth, vineyard, none;
   No use of metal, corn, or wine, or oil;
   No occupation; all men idle, all;
   And women too, but innocent and pure;
   No sovereignty;--.(2.1)

ゴンザーロは、この島には文明ではなく原始の自然を復活させたいといっている。彼は文明人なのだが、その資格において目指すところは野蛮人と同様の原始的な生き方と云うわけだ。世界の果てで見出した理想の境地、つまりユートピアとは、ゴンザーロにあっては、文明の反対側にある世界なのである。

そのユートピアは、トーマス・モアにとっては現実の世界ではどこにもない土地(ノーホエア)であった。つまり想像上の国だったわけである。

しかしコロンブスが新大陸を発見してからというもの、ユートピアにも実在的な意味合いが付きまとうようになった。ユートピアはもはやノーホエアではなく、サムホエアになったわけだ。イギリス人がヴァージニアに到達すると、ユートピアの実在性はさらに強くなった。

ユートピアに実在性が付与されたおかげで、人々の想像力も膨らんだ。そうした想像力のはばたける範囲を描いたのが、シェイクスピアにとっては「テンペスト」だったわけである。

プロスペロの娘ミランダは、野生の少女として描かれる。彼女には知的なところが全く見られない。単純無垢なのである。だから彼女が難破した大勢の男たちを見たとき、目がくらんだとしても、不自然ではない。彼女はこういうのだ。

  ミランダ:なんてすばらしい!
   ここにいる人たちはなんて素敵な人たちなんでしょう!
   ああ 素晴らしい新世界だわ
   こんな人たちがいるなんて!
  MIRANDA:O, wonder!
   How many goodly creatures are there here!
   How beauteous mankind is! O brave new world,
   That has such people in't!(5.1)

彼女は生まれて初めて人類と出会ったのだ。父親のプロスペロはもちろん人間だ。しかし人間はたった一人では人類にはなれない。人間が人類になるためには、人間が大勢集まって社会を作らなくてはならない。

ミランダの言葉にはこうした意味が込められているのだ。


関連サイト: シェイクスピア劇のハイライト






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このページは、が2012年2月18日 18:05に書いたブログ記事です。

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