早乙女勝元「東京大空襲」

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NHKの特別報道番組「東京大空襲」に触発されて、早乙女勝元さんの「東京大空襲」(岩波新書)を三十数年ぶりに読み返した。早乙女さんがこの本を書いたのは1970年というから戦後25年がたっていたわけだが、その時点でも、この歴史的な事件についての調査は殆ど進んでおらず、全容の把握が困難な中で、早乙女さんは奇跡的に生き残った人々の記憶を頼りに、この空襲がどんなものだったか、再現して見せた。初めて読んだ時も衝撃をうけたが、今読んでも身の毛がよだつような興奮を覚える。

早乙女さん自身がこの空襲を、身を以て体験したひとりだった。だからこの空襲の非人間的な性格や、殺された人々の無念さは、現場感覚を以て理解できる立場にある。その自分自身の体験のほかに、協力してくれた数人の人々の記憶を寄せ集めて、この空襲の実態を再現して見せてくれたわけである。

早乙女さんを含めてこの空襲を体験した人々が共通して感じたことのうちで最も印象的だったのは、自分たちを攻撃しているアメリカ兵の存在を間近に感じたという彼らの証言だ。B29はそれこそ地面すれすれの低空飛行を行って、いたるところに焼夷弾を落したばかりか、逃げ惑う人々を標的に銃弾射撃を行った。証言した人々は、自分たちを狙い撃ちにしてほくそえんでいるアメリカ兵の顔が見えたとも言っており、この空襲が抽象的なものではなく、極めて身近で人間的な暴力の性格をもっていたことを物語っている。

次に印象的なことは、この空襲が非常に綿密なプランに従って整然と行われたということであり、そこに悪魔の冷酷な意思のようなものが感じられるということである。B29の編隊の最先端はいったん東京上空に現れてすぐに去るという行為をすることで東京市民を油断させておいて、その数時間後に大編隊で再度現れるや、まず下町の周辺部に焼夷弾を落して火の壁を作り、市民の逃げ場を塞いでおいてから、じわじわと火の壁の内部の町を焼き尽くし、逃げ惑う人々を殺しつくした。

焼夷弾にはいくつか種類があった。まずナパーム弾といわれる油脂焼夷弾は、燃焼力が強力でしかも時間が長続きする。これでもって下町の周囲をぐるりと包囲するように、火の壁を作る。

次にM69型といわれるものは、落下した瞬間真っ赤な炎と5メートルにも上る黒煙を上げる。水をかけてもかえって燃え広がるといった立ちのわるい焼夷弾だ。これが逃げ惑う人々の頭上にそれこそ雨あられのように降り注いできた。

また「モロトフのパンかご」と称されるものは、空中で親爆弾が爆発してそこから子供の焼夷弾が飛び散り、至る方向に火の玉をまき散らすというものだ。早乙女さん自身、逃げ惑う途中でこの子ども焼夷弾に見舞われる寸前の危機に陥ったという。もしも御見舞いされていたら、今頃は生きてはいなかったはずだというから恐ろしい。

3月10日に東京を襲ったB29の数は、334機という説と279機という説があったりで、正確なことはわからない。落された爆弾と焼夷弾の量もしたがって正確には分からないようだ。米国戦略爆撃調査団の資料によれば、1667トン、これによって焼失した市街地の面積は15.8平方キロメートル、使者の数は83600人、負傷者の数は10万2000人、一日で失われた人間の数としては、戦闘行為も含めて世界戦争史上最大の規模になるという。

これは空襲をした当事者の調査結果だが、空襲を受けた当事者である日本国の政府は、被害の実態についてまともな調査を行っていない。これはハンブルグなどに深刻な空襲を受けたドイツ政府が、被害の実態について詳細な調査を行っていることと比べて、信じられないほどの無作為ぶりである。だいたい、政府は国民に対してこの空襲の被害の実態をまともに知らしていない。3月10日の正午に大本営がラヂオを通じて次のような発表をしただけだ。

「本3月10日零時過より2時40分の間B29約130機主力を以て帝都に来襲市街地を盲爆せり
「右盲爆により都内各所に火災を生じたるも宮内省首馬寮は2時35分其の他は8時頃までに鎮火せり
「現在までに判明せる戦果次の如し
「撃墜15機 損害を与へたるもの約50機」

空襲の規模を過小に見積もり、ありもしない戦果を誇示する、その一方で宮内省のことばかりを心配し、膨大な数の被害者については歯牙にもかけない、日本政府のスタンスが文面から透けてみえるというものだ。

こんなわけだから、日本政府は、死んだ人には敬意を払わず、被害を受けた人々の救済にも無関心だった。そんなわけで、この空襲の事は戦後も公に触れられることは殆どなく、歴史の闇に埋もれようとしていたところを、早乙女さんたちが立ち上がって、記録の運動を繰り広げたというわけなのだ。

早乙女さんが日本政府のとった対応の中で最も許せないことは、この空襲の責任者だったルメイ将軍に対して、昭和39年に勲一等旭日大綬章を授与したことだ。ルメイは東京大空襲のみならず、広島、長崎に原爆を投下した直接の責任者でもある。こうした男に、何故当時の佐藤政権が最高の勲章を授与したのか、まったく理解に苦しむといって、早乙女さんは憤っておられる。日本人なら誰でも同感のはずだ。


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このページは、が2012年3月20日 18:08に書いたブログ記事です。

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