蘇軾、杭州知事となる

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元祐4年(1089)3月、蘇軾は浙西路兵馬鈐轄、知杭州軍州事に命じられた。杭州知事兼浙江一帯の軍の司令官といった役職だ。

2年余り中央に在任していた間、蘇軾は王安石のやってきた青苗法などの新法をことごとく廃止し、新法の一味を中央から駆逐した。太皇太后の強い信頼を武器にして、若い頃からの持論を実行して見せたのだった。

だがそのことで、蘇軾は多くの政敵をつくった。それらの政敵たちから自身がひどい攻撃にさらされたばかりか、蘇軾の友人たちも攻撃にさらされた。そこでこのまま中央にいては、身の安全が保てないと判断した蘇軾は、太皇太后に地方転出を願い出た。

太皇太后がなかなか許してくれないので、蘇軾は次のような手紙を書いて、強く地方転出を願った。「もし私が衆人に雷同し、皆を喜ばそうとするならば、私は両親に反して振る舞い、陛下にそむくことになりましょう。しかし、もし私が節操を守り、真実を語り続けようとするならば、私は一層多くの敵を作って、遂には死刑か流謫のどちらかに処せられるでしょう。陛下が私の困難な立場をご明察下さって、羨望されることのより少ない地位につけることによって、私をお守りくださいますようお願いいたします」(林語堂、合山究訳)

こうした切実な願いをうけた太皇太后は、ついに蘇軾の地方転出を認めてくれたのだった。

杭州にはかつて、36歳から約三年間、通判(副知事)として赴任したことがあったから、ほぼ16年ぶりの再赴任である。今回は最高権威者としての知事の立場だ。副知事としてはできなかったことが、今はできる。

こうして蘇軾は、わずか2年ほどの杭州在任中、さまざまな政策を実行した。その成果は今でも残っていて、杭州の人々に感謝され続けてきた。

蘇軾がもっとも意を注いだのは土木工事である。運河を浚渫し、西湖を改修した。また西湖の水と貯水池を有効に活用して大規模な水道網を築いた。蘇堤といわれて今でも親しまれている堤防は、運河や西湖の浚渫泥土を用いて築いたものである。

蘇軾は中国の歴史上初めての公立病院を作った。当時の杭州の人口は50万人ともいわれたが、公立病院が一つもなかった。杭州は銭塘江の河口に位置し、疫病が頻繁におこっていた。蘇軾は公立病院を作ることで、疫病の蔓延を抑えようとしたのである。

蘇軾が杭州に赴任した年は凶作だった。そこで深刻な飢饉が起こることが予想された。蘇軾は太皇太后に働きかけ、飢饉対策にとりかかったが、こちらは土木工事程うまくいかなかった。

そんな具合で、杭州知事時代の2年間は、蘇軾の役人人生の中で、もっとも充実した時代だったといえるのではないか。

ここでは、杭州時代の元祐5年(1090)に作った絶句「贈劉景文」を取り上げる。劉景文は両浙兵馬都監の地位にあって、民兵を率いていた。この人に蘇軾は20篇もの詩を贈っているから、大分親しかったのだろう。


劉景文に贈る

  荷尽已無擎雨蓋  荷は尽きて已に雨に擎(ささ)ぐるの蓋無く
  菊残猶有傲霜枝  菊は残(おとろ)へて猶ほ霜に傲れる枝有り
  一年好景君須記  一年の好景 君須らく記すべし
  正是橙黄橘緑時  正に是 橙は黄に橘は緑なす時

蓮の葉は尽きて雨にかざすべき傘がない、菊の花は萎びたが猶その枝は霜に耐えている、一年でもっとも美しい今の季節を覚えておいでなさい、今まさに橙の実は黄色に色づき橘の葉が緑なす時です


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このページは、が2012年3月28日 18:03に書いたブログ記事です。

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