ウェーキ島の攻略:児島襄「太平洋戦争」

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真珠湾攻撃、マレー作戦、フィリピン侵攻など、太平洋戦争の初戦においては、日本軍は破竹の勢いを示し、ものすごい戦果をあげた。そのなかでただひとつ、日本軍があわや敗退しそうになった戦いがあった。ウェーク島を巡る戦いである。この闘いは結果としては日本軍の勝利に終わったが、日本軍はアメリカの守備部隊よりはるかに大きな犠牲をはらった。その犠牲の教訓を、日本軍は後々のために生かすべきだったのに、勝利に酔いしれて生かすことをしなかった。そうした浮ついた姿勢は、その後の日本軍の運命を暗示していた、と児島襄氏は批判する。

ウェーク島は、西太平洋に位置し、アメリカ本土とフィリピンを結ぶ航路の中継地点であり、グアム島と並んで重要な戦略拠点であった。これらを抑えることは、制海権、制空権の確保という意味で、日本にとっても死活的な意義を持っていたわけである。

グアム島はあっさりと攻略できた。しかしウェーク島の方はそうはいかなかった。1941年12月8日の海戦と同時に、日本軍による空襲が3日間続き、島内の軍事施設や飛行機が徹底的に破壊された。この攻撃を受けて、梶岡少将率いる第6水雷戦隊が上陸を図った。通常、こうした上陸作戦には、空からの援護が定石だが、梶岡少将はいらないといった。初戦の空爆で、島内の軍事施設や飛行機はすべて破壊したと思い込んでいたからである。

しかし、島内には3つの砲台と4機のグラマンが残っていた。たったこれだけのために、日本軍は撃退されて上陸を果たせなかった。開戦からジャワ攻略までの第一段の作戦において、日本軍の上陸が阻止されたのは、このウェーキ島第一次上陸作戦だけである。日本軍の損失は、駆逐艦2隻沈没、駆逐艦2隻、輸送船1隻小破、戦死341人、戦傷65人、行方不明2人、対してアメリカ側の損失は軽傷3人に過ぎなかった。文字通りの完敗である。

この作戦失敗が連合艦隊に伝えられると、連合艦隊は日本軍の名誉にかけて攻略実現にいきりたった。ハワイ帰りの機動部隊にウェーキ攻略支援が命じられ、蒼龍、飛龍の空母部隊をはじめ、大部隊が投じられた。12月21日からこれらの部隊による空襲が始まり、島内に残っていた軍事施設や飛行機は完全に破壊された。そこで23日、梶岡少将は再度上陸を図り、今度はそれに成功した。

一方アメリカ側も、ウェーキ救援のために空母サラトガを中心とする機動部隊をハワイから派遣したが、これがどういうわけか、途中で真珠湾に引き返してしまった。孤立してしかも重要な戦力をもぎ取られたかたちのアメリカ軍は、上陸してきた日本軍と激しく戦った。しかし多勢に無勢、島を大艦隊に取り囲まれ、空からは戦闘機に狙い撃ちにされ、上陸後わずか半日の戦闘で、アメリカ軍は日本軍に降伏した。

かくて日本軍の名誉は回復されたが、第二次作戦で蒙った損失も大きかった。戦死111人、戦傷94人、対してアメリカ軍の損失は戦死120人(うち民間人70人)、戦傷48人、行方不明2人であった。

「このウェーキ島の戦闘は、太平洋戦争における最初の離島攻防戦であった。制空、制海権を獲得した優勢な兵力による攻撃、砲爆撃による施設と指揮系統の破壊、しらみつぶしの陸上陣地攻略。そこには小規模ながら、島嶼攻略に必要な合理的戦術の数々、のちに繰り広げられる太平洋の死闘の原型が示唆されている。」

児島氏はこういって、日本軍がウェーキ島での教訓を十分に生かせなかったことが、その後の島嶼をめぐる数々の攻防に負けた要因だとしている。問題なのは、ウェーキ島の戦いから学んだ貴重な教訓をまとめて進言した軍人がいたにも拘わらず、軍部の首脳がそれを黙殺してしまったことだ。

「第4艦隊参謀土肥一夫少佐は、ウェーキ戦が終わった直後、防備陣地の改革、たとえば砲爆撃をはねとばす円錐形トーチカ陣地の着想などを進言した。攻守所を変えた場合の対策を、戦闘の様相から読み取ったからである。だが勝利の中に敗北の教訓を見出すことは難しい。土肥少佐の提案は入れられず、ウェーキ戦は多くの教訓を持ったまま、小戦闘として、つぎつぎにあがる大きな勝鬨のかげに埋没されてしまった」

日本軍は、開戦から半年しかたたぬうちに、連合軍の猛烈な反撃を受けるようになる。その第一弾ともいえるのが、ガダルカナルでの敗戦だ。これは、ウェーキ島でアメリカ軍が陥っていたのと同じような状況に、日本軍が置かれたために起きた敗戦といえる。

航空機の威力と限界を十分に研究せず、また物資の補給ルートの確保もしないままで、日本軍の拠点から1000キロ以上も離れた孤島ガダルカナルを、日本軍は無理に確保しようとした。そのため、アメリカ側に制空権と制海権を奪われ、袋叩きのような目にあった。その負け戦の様相は、ウェーキ島でのアメリカ側の立場を日本がそのまま我が物として引き継いだことの、いわば必然的な結果だったわけである。


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このページは、が2012年5月 8日 18:15に書いたブログ記事です。

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