新宮、大門坂、那智大社:紀伊半島の旅その三

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熊野三山は、熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社からなる。三社合わせて熊野権現ともいうとおり、日本における権現信仰の総本山ともいえるものだ。権現とは仏が神の形をとって現れたとする信仰形態であり、神仏習合の究極のあり方である。

その一つ熊野速玉大社に、午後3時近くに到着した。ここは海岸沿いに位置し、神社としては珍しく平場に立っている。ガイドの説明によれば、神体の熊野速玉大神は、もともとはことびき岩というものに取りついたのであるが、のちに人々によって社を建ててもらい遷座した。それ故、この宮を新宮というのだそうだ。筆者は本宮に対して新宮と言うのかと思っていたのだが、その思い込みは誤っていたわけだ。

お参りをすますと、横手に立っていた神官に呼び止められ、本社の由来を聞かされた。神官曰く、熊野三山は、イザナギノミコト、イザナミノミコト、スサノオノミコトを共通の神としてお祭りいたしています。全国に三千ある熊野神社の総社として最も格式の高い神社であります、と。しかしなぜか神官は熊野三山が権現信仰の拠点であることには触れなかった。

本宮大社を出た後、バスは那智の滝方面へ向かって渓流に沿って上って行った。すると、崩壊した山林やら取り壊された建築物が目に入ってきた。昨秋の台風による水害の跡なのだそうだ。そのすさまじさに、目を覆った次第だ。

大門坂の下で下車し、我々はそこから熊野古道の一部を歩いた。距離にして数百メートル、ほんの20分余りに過ぎなかったが、鬱蒼とした杉並木の合間を歩くのは気持ちが良かった。

那智大社へは長い石段を登っていかねばならない。登り切ったところに、神社の拝殿と寺院の建物が並んで立っている。寺院は青岸渡寺といって西国一番札所になっている。熊野三山は、かつては三社とも寺院を併設していたが、明治の廃仏毀釈令によって取り壊され、唯一この青岸渡寺のみが危難を免れたのだという。

熊野三山は権現神社なのであるから、寺院を併設しているのは自然なことだったのである。それを明治政府が力づくで分離させようとしたのであるが、それがどんな政治的意思を体現していたのか、学問のテーマになるところだと思う。

青岸渡寺からは、那智の滝の上部が同じ目線で眺められる。三筋の滝といわれるとおり、三筋の水が途中で合流して、滝壺に向かって流れ落ちるというのが、この滝のチャームポイントだったわけであるが、その眺めが、昨年秋の水害によって大分変ってしまった。

滝の下部へ降りると、足元にかつてあったはずの滝壺がない。岩が崩れ落ちてきて、滝壺のあったあたりを埋めてしまったのだ。筆者が子どもたちを連れてここを見物したのはもう20年以上も前のことで、詳しいことは大方忘れてしまったが、それでも滝壺に向かって長大な滝が流れ落ちていたさまは記憶の底に残っている。

そのイメージとはまるで異なった光景が眼前に広がっている。他の観光客たちも、こんなはずじゃなかったのにと、口々に驚きの表情をていしている、昨秋の水害がいかにひどいものであったか、改めて思い知らされた次第だ。






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このページは、が2012年5月31日 19:12に書いたブログ記事です。

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