丸谷才一氏の村上春樹評

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群像の「日本の作家」特集の村上春樹編を、アマゾンの中古サイトから取り寄せて読んだ。いろんな作家の村上春樹評が載っている。文壇からはとかく無視されがちとの評判がある村上だが、この特集には、村上に対して理解のある人たちの文章が集められている。といっても、あまり印象に残るようなものはなかったが、ひとつ印象的なものがあった。丸谷才一氏が、村上の三度にわたる受賞に際して、選者の立場からコメントした、それぞれに短い文章だ。

最初は、「風の歌を聴け」で群像新人賞を受けたときのコメントだ。この中で丸谷氏は、村上の作風がアメリカ現代文学の強い影響下にあることを指摘したうえで、次のように書いている。

「むかし風のリアリズム小説から抜け出そうとして抜け出せないのは、今の日本の小説の一般的な傾向ですが、たとへ外国のお手本があるとはいへ、これだけ自在にそして巧妙にリアリズムから離れたのは、注目すべき成果といってよいでせう」

次は、「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」が谷崎潤一郎賞を取った際のコメント。ここでも丸谷氏は、村上のノン・リアリズムについて、言及している。

「我々の小説が、リアリズムから脱出しなければならないことは、多くの作家が感じてゐることだが、リアリズム離れは得てしてデタラメになりがちだった。しかし村上氏はリアリズムを捨てながら論理的に書く。独特の清新な風情はそこから生じるのである」

こう書いて、村上の小説に「何かの始まり」を読み取っている。

最期は、「ねじまき鳥クロニクル」が読売文学賞を取った際のコメントだ。この作品は、いまでも村上の代表作に数えてもよいほどだから、つまり村上文学のひとつの頂点といえる作品だから、批評の大家である丸谷氏はもはや、リアリズムがどうのこうのといった、次元の低い言い方はしていない。何かのはじまりが実を結んで、壮大な物語が出現した、という言い方になっている。

丸谷氏は、村上春樹のこの作品を、人類が伝えてきた雄大な口承文学の復活とみなして、あの千夜一夜に比較して、次のように言う。

「村上春樹さんは、あの、いつの頃かインドにおいて中心部が形成され、やがてペルシャ、アラビアと渡って十六世紀のエジプトで編纂された物語、東洋のすべて一切を含む魔法の書と張り合おうとした」

そして村上は、その張り合いにおいて引けをとらなかった、そう丸谷氏は評価しているようである。つまり村上春樹といった作家を、日本という局地的な土壌の中で取り上げるのではなく、世界の歴史的な流れの中でどんな位置づけをもっているか、そういう壮大なパースペクティブの中で、村上を評価しているわけだ。

ここにいたって筆者は、丸谷さんはやはり、いうことが違うなあ、と氏の眼識の幅広さ、奥深さに恐れ入った次第である。

筆者は丸谷才一氏のファンでもあり、小説や批評の多くを読ませてもらった。とくに氏の批評は、知的でしかもウィットに富んでいて、読むこと自体がとても楽しい。

小説では「女さかり」が面白かった。そこで丸谷さんがこだわっていたのは、やはりリアリズムからの脱却ではなかったか。しかし、話は奇想天外で常識はずれなところもあったけれど、アンチ・リアリズムとまでは言えなかった。丸谷さん自身は、リアリズムからの脱却をめざしながら、なかなかそれを超えられなかった。そういっていいのではないか。

そこへ、リアリズムをポーンとこえて、純粋な物語の世界を展開するような作品が現れた。村上の「ねじまき鳥」を読んで、丸谷さんは、日本文学もやっと狭い地方性を脱却して、世界文学の大きな流れに列することができるようになった、そう感じたのだろうと思う。


関連サイト:村上春樹を読む





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このページは、が2012年6月21日 18:09に書いたブログ記事です。

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