係り結びは何故ほろびたか:山口仲美「日本語の歴史」

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話し言葉・書き言葉を通じて、平安時代までと中世とではちょっとした断絶がある、と言語学者の山口仲美氏はいう(日本語の歴史)。平安時代までの日本語がきわめて情緒的な性格を帯びていたのに対して、中世以後の日本語は次第に論理を重んじたものになっていく、というのである。その過程で、日本語のきわめて顕著な特徴であった係り結びが、中世には次第に用いられなくなり、ついには滅び去ってしまった、氏はそうもいう。

係り結びといっても、現代人にとってはピンとこないが、古代の日本語にとっては、ごくありふれた日本語の使い方だった。それが中世以降には表舞台から消えてなくなってしまったわけだから、そこにどんな事情が働いていたか、気になろうというものだ。

係り結びには「なむ~連体形」、「ぞ~連体形」、「や~連体形」、「か~連体形」、「こそ~已然形」の五つの形があった。このうち「なむ」、「ぞ」、「こそ」は強調表現、「や」、「か」は疑問ないし反語表現とされてきたが、個々のニュアンスの違いが問題とされることはあまりなかった。

だが子細に比較すると、それぞれの表現の間には、かなりな差異があったと氏は言う。

強調表現のうち、「なむ」は話し相手との関係を意識して、念を押すような、強調の形である。「その竹のなかに、もと光る竹なむ一筋ありける」といえば、「根っこのところが光っている竹がネ、一本あったんですよ」といったニュアンスになる。

「ぞ」は、話題となっていることを、それと指し示すための強調である。「その竹の中に、もと光る竹ぞ一筋ありける」といえば、「その竹の中に一本あったのは、根元の光る竹だった」という具合だ。

「こそ」は対象をとりたてて強調する表現。「その竹の中に、もとひかる竹こそ一筋ありけれ」といえば、「その竹に中に、根元の光る竹こそが、一本あったのだった」という具合だ。

この三つの表現のうち、「なむ」がもっとも早く消滅した。徒然草には「こそ」が195回、「ぞ」が100回用いられているのに「なむ」はたったの10回。他の表現よりはるかに少なくなっている。時代が下るにしたがって「なむ」の使用頻度は更に低くなり、中世末期には全く使われなくなった。

その理由は、「なむ」が話し手と聞き手の間のねばっこい人間関係を予想させ、柔らかい語り口になるといった性質にあると氏は言う。武家文化が中心の中世にあっては、男性的できっぱりとした言い方が重んじられ、柔な言い方は敬遠されたというわけだ。

「ぞ」には男性的な側面がある。「もんどりうってぞ倒れける」のように、描写を生き生きとさせる効果もある。だがこれもやがて使われなくなる。その理由は、日本語の構造が次第に変化したことにあると氏はいう。

平安時代までは、動詞や助動詞の終止形と連帯形は整然と区別されていたが、中世になるとその区別が次第に曖昧になり、やがては終止形が連帯形に吸収される事態が起こる。「勉強す」が「勉強する」というぐあいに、それまで終止形が用いられていたところに連帯形がとってかわったわけだ。終止形と連帯形の区別がなくなると、自然の勢いとして連帯形系統の係り結びには混乱が発生しやすくなり、やがてはついに用いられなくなったというわけである。

「や」、「か」はどちらも疑問と反語を表す係り助詞だが、これらにもニュアンスの相違はある。「や」の方は文全体を疑問形にするために使われるのに対して、「か」の方は分の一部をとりだしてそれに疑問を投げかける。「大伴の大納言は、龍の頸の玉やとりておはしたる」といえば、大友の大納言は龍の玉をとってきたのです、か」という具合に文全体が疑問のかたちになっている。一方、「いかに思ひてか、汝らかたきもとと申すべき」のほうは、文章の前半にかかるだけである。

反語の場合には、文全体が問題となるので、疑問の場合とは異なって両者には文法上の相違は生じない、生じるのは語気の差であるという。「か」の方が「や」よりも語気が強いのだ。

室町時代になると、「や」のほうは疑問形に、「か」のほうは反語の形にと、役割分担が進む。だが、上述したような理由(終止形の連体形化)で、このふたつも次第に消えていく運命にあった。

連体形と結びついた4つの係助詞に比較すると、「こそ」のほうは已然形と結びついているおかげで、係り結びの法則性が見失われることはなかったために、相対的に長生きしたが、これもやがて次第に用いられなくなった。係り結びの仲間たちがなくなることによる効果だ。孤立した事象はいつまでも長くは続かないということか。

この他に、日本語の構造が次第に論理的になっていったという言語構造上の事象も、係り結びが消失したことに影響していると氏は言う。「が」や「を」といった格助詞や接続詞を効果的に使うことで、文の論理的なつながりを明示しようとする傾向が強まってくると、本来情緒的な性格がつよく、表現を曖昧にさせる方向に働いていた係り結びは次第に主流から外れていくというわけである。

たしかに、対象を強調して表現するのと、対象を論理的に説明するのとでは、目的も効果も違ってくる。係り結びは、格助詞を用いて論理的に説明することとは異なり、話し手や聞き手にとって対象のもっているべきと考えられることがらを、ことさらに強調することで、情緒的な効果をねらった表現だといえるのである。


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このページは、が2012年7月 4日 18:13に書いたブログ記事です。

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