最期の前方後円墳・丸山古墳

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関西地方を中心に南は九州から北は東北の各地にかけて4700もの前方後円墳が点在しているが、それらが作られた当時の様子については意外に知られていない。盗掘が進んで内部が荒らされていたり、また大型古墳は皇室ゆかりのものとみなされて宮内庁管理下にあって、立ち入りが禁止されているからだ。

その前方後円墳にかかわる豊富な資料が、イギリスの大英博物館に保存されているという。明治の初期に日本を訪れた技術者ガウランドが、各地の古墳を調査測量したうえで、その調査メモと自ら発掘した副葬品などを持ち帰って、大英博物館に寄贈していたのだ。ガウランド・コレクションと言う。

そのコレクショについて、日英合同の調査チームが研究を始めた。その様子をNHKスペシャルが紹介している。(知られざる大英博物館第3集 日本 巨大古墳の謎)

ガウランド・コレクションは多数の古墳の膨大な資料からなるが、圧巻は東大阪市にある柴山古墳と、奈良県橿原市にある丸山古墳にかかわるものだ。柴山古墳からは、石室に安置されていたと思われる棺二体と、その副葬品及びすえ器と呼ばれる葬祭のための道具などが見つかった。それらをコンピューター技術を用いて再現したところ、この石室内に安置されていた柩の様子から、恐らくは天皇などの身分の高い人物の墓であると推測されたという。

また丸山古墳は、6世紀に造られたものであり、前方後円墳としては最後の時代のものと思われるが、それを裏付けるように、以前の前方後円墳とは異なった特徴を持っているという。その最たるものは、石室が収められた場所と、それに至る道筋だ。

全盛期の前方後円墳にあっては、石室は円形の塚の部分の中心に位置し、竪穴形式である。それに対して丸山古墳にあっては、円形の塚の腹から横穴式に掘られており、しかも中心部に到達しないでいる。恐らくは、古墳があまりに巨大すぎたため、横穴をそれ以上掘り進めなかったのではないか、研究チームはそう推定している。その理由は、石室を構成する石組みにあるのではないか、つまりそれ以前の時代の石組みと違って、ここでは巨大な石を用いているが、その石を横穴に組み進むのに多大な困難があったため、中途であきらめたのではないか、というのである。

墓穴が竪穴から横穴に変ったのは、朝鮮半島からの影響らしい。朝鮮半島からの影響は墓制のみにとどまらなかった。仏教をはじめ様々な文化が怒涛のように押し寄せてきた。それに伴って日本の文化も多大な変容をきたした。伝統的な前方後円墳が作られなくなったのは、その象徴的な出来事だった、というわけである。

ところで、現存する古墳のうちで最大規模のものは、堺市の仁徳天皇陵とされるもので、面積からすれば秦の始皇帝陵やピラミッドよりも大きい。いまでは周辺をびっしりと宅地に囲まれているが、明治初年には周囲一面の野原であり、その真ん中に巨大な陵墓が聳えているといった風情を醸し出していた。その時の様子を写した写真も残っていて、非常に興味深く見た。(写真は仁徳天皇陵)





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このページは、が2012年7月10日 19:23に書いたブログ記事です。

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