小泉政権の外交政策:内山融「小泉政権」

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小泉政権の外交政策については、明確な戦略性に欠けていたとの評価が強い。自民党の伝統であった対米追随姿勢を、みっともないほど強める一方、中国や韓国など東アジア諸国とは最悪の関係に陥ったというわけである。一方では、就任早々ブッシュと親密な関係を演出し、ブッシュの求めに対しては何でも応えながら、度重なる靖国参拝で東アジア諸国を挑発し、首脳レベルでの関係は冷え込んだ。地政学的にも、戦略的にも、日本としてほとんどありえない選択、というか為体を、小泉はやってのけた、そういう批判が強くある。

小泉が外交を軽視していたことは、つぎのようなエピソードにも表れている。2003年7月23日行われた党首討論で、民主党の菅代表が、イラクへの自衛隊派遣について質問した際、小泉は、「どこが戦闘地域か、わたしに聴かれたってわかるわけがない」と答え、更に「知らざるを知らずとせよ。是知るなり」と開き直った。これはたとえば、野田総理大臣がオスプレイについて、「危険かどうか、わたしに聴かれたってわかるわけがない。何事もアメリカを信じればいいのだ」というに等しい。

万事こんな調子で、小泉はアメリカ追随外交に徹した。その無批判な追随ぶりは、自分の頭で考えずとも、アメリカのブッシュさんが適当に考えてくれると言わんばかりである。そのブッシュさんから小泉は、テロとの戦いで人的・軍事的貢献を求められると、唯々諾々として従った。その従いかたには異常なものがあった。アメリカの思惑を先に読もうとするあまり、いわゆる前のめりの状態にもなった。たとえば、アーミテージ国防長官が、9・11後に関して「ショー・ザ・フラッグ」といった時に、小泉はこれを「自衛隊を派遣せよ」と解釈した。実際にアーミテージが言いたかったことは、相応の貢献をしてほしいということだったらしいのが、小泉はそれを深読みして、自分から自衛隊の派遣をせっせと決めたというわけなのである。

ブッシュの単独行動主義は、ヨーロッパ諸国からも広範な批判を呼んだが、そのなかで一貫してブッシュに寄り添ったのは、イギリスと日本である。ところがイギリスのブレア首相は、ブッシュを応援する一方、ヨーロッパ諸国との接点をも持とうと努力したが、小泉にはそんな配慮はひとかけらもなかった。彼にとっては、ただただアメリカに追随することが日本にとっての利益と思えたのだろう。

一方、中国、韓国との間では、混迷を超えて外交の不在ともいうべき状況が現出した。その最も大きな原因は小泉自身にある。彼の度重なる靖国参拝が中国、韓国をはじめ周辺の東アジア諸国を刺激し、その結果が東アジア外交の不在につながったのである。

小泉はまず、就任した年(2001)の8月13日に靖国に参拝した。1996年7月の橋本以来の首相参拝だった。その後も2002年5月、2003年1月、2004年1月、2005年10月、2006年8月と、6回にわたり公式参拝を行った。そのたびに、中国・韓国の反発を招き、2005年には大規模は反日デモが巻き起こる事態にも発展し、日中関係は深刻な状態に陥った。

こうした事態を、小泉がどう受け取っていたか。自分の勝手だろ、というのが彼の本音なのだろう。自分の信念にもとづいてやっていることに、他人がとやかく言う筋合いはないというわけだ。しかし、個人的な信念と、首相としての公式な立場とは、おのずから違う。私的な感情を公的な言動に持ち込むことは、時と場合によっては慎まなければならないことがある。小泉にはそこのところがわからなかったらしい。彼の行動からは、日本の国益よりも、自分の信念の方が大事だという雰囲気が伝わってくる。

小泉外交について特記されねばならないのは、北朝鮮の金正日との二度にわたる会談である。これらの会談を通じて、小泉は拉致問題の解決にむけて一歩を踏み出した。すなわち、一回目の会談では、拉致被害者の存在を金正日に認めさせ、それにもとづいて五人の拉致被害者の帰国が実現した。その後、てんやわんやがあった後に開かれた二回目の会談では、被害者の家族の帰国も実現した。

こうした具合に、小泉の北朝鮮外交は、拉致被害者問題との関連で論じられることが多いが、実際には、小泉の方から拉致問題の解決について働きかけたというよりも、金正日の方からの働き掛けに小泉が乗ったという側面の方が強い。金正日は、経済の立て直しのために日本の援助を期待し、その前提として国交正常化を考えるようになった。こうした思惑があったために、北朝鮮との首脳会談が実現したという経緯がある。小泉はそれに乗る形で、拉致問題の解決を図ろうとしたに過ぎない。そうもいえるのである。

そうしてみれば、小泉・金正日会談は、両国の抜本的な関係改善にとって、またとないチャンスだったわけである。だが不幸なことに、拉致問題がなかなか解決されず、それがネックとなって、日朝関係は暗礁に乗り上げてしまったといえる。

ここにも、外交を戦略的に身すえず、その場の雰囲気に任せるという小泉の姿勢が、外交の不在をもたらしている、そう言えるのだと思う。

以上は、内山融「小泉政権」(中公新書)を読んで感じたところである。





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