板野潤治「日本近代史」

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歴史を語る場合の切口にはいくつものやり方があるが、もっともわかりやすくて、かつドラマティックなものは、英雄を中心に描くことである。これを英雄史観という。英雄史観は読み物としても面白い要素があるので、大衆受けもする。その反面、個人に対して過剰なスポットがあてられる結果、歴史の全体的な流れが歪曲される危険が付きまとう。これを克服して、歴史と個人の相互作用を過不足なく描くことができれば、それは一流の歴史物語になる資格がある。

板野潤治氏の「日本近代史」は、典型的な英雄史観を開陳したものといえる。日本の近代史を、時代時代を画した人物(英雄)ないしは勢力の動きを中心に描き出したものだ。英雄とそれを取り巻く人物や勢力が、離合集散し、あるいは提携反目しながら、様々な事件を織りなしつつ歴史の本流を形作っていく、そのダイナミックな動きが生き生きと描かれているといえる。それ故この書物は「歴史学の書」であるとともに、「歴史物語」にもなり得ている。だから、単なる歴史教科書を読むのとは違って、「読み物」を読む楽しさが味わえる。

この書は、西暦1857年から1937年までをカバーしている。開国を巡って揺れていた安政4年から、支那事変が勃発した昭和12年までの80年間である。この80年間を氏は、改革、革命、建設、運用、再編、危機の諸段階に区分し、それぞれの時代をどのような個人或は勢力が、日本という国の主導権を巡って相争ったかを、生き生きと描き出している。そして幕末の改革に始まった日本のこの80年間の歴史が、一通りのサイクルをたどった後、音を立てて崩壊し、次のサイクルへとつながっていく、そのダイナミズムに焦点があてられている。

この80年間の初頭を画する英雄は西郷隆盛である。幕末から明治維新への流れはひとえに西郷隆盛の動きによって説明することができる。なぜなら明治維新とは西郷隆盛の描いた戦略が実現されていく過程なのであり、西郷隆盛こそが日本を近代に導いた決定的な人物、つまり英雄なのだと、氏は喝破するのである。西郷隆盛に比すれば、いかなる人物、たとえ明治天皇であっても、端役に過ぎない、というわけである。

その証拠に、西郷が島津久光によって西南の離島に幽閉された5年ばかりの間には日本の歴史は停滞し、彼が解放されて活動を始めた途端に再び前へ向かって動き始めたのである。西郷のいないところでは、日本の歴史は一歩も進まなかった、これは疑うべからざる事実だ、そう氏は断言するのである。

では、西郷が描いた戦略とはなんだったか。一言でいえば、幕府打倒である。討幕を目指す勢力であれば、攘夷だろうが、開国だろうが、大きな差はない。討幕の旗印の下で一致団結して徳川幕府を倒し、その後に新しい政府を作る、その政府のあり方については、色々な議論があるだろうが、とにかくどんな議論も幕府を倒さない限り何の意味も持たない。それ故、みんなで幕府打倒に立ち上がろうではないか、こういうごく単純なものだったのだ。

幕末には、長州の尊王攘夷論あり、土佐の公武合体論あり、有力幕閣の開国論あり、様々な意見があった。その中で徳川幕府を打倒しようと終始一貫して主張したものは西郷だった。その終始一貫した姿勢が長州や土佐をはじめ、さまざまな運動体の信頼を得たがゆえに、西郷を中核として怒涛のような倒幕運動が結成された。その過程で、土佐の坂本竜馬が一定の役割を果たした事実もあったろうが、西郷の偉大さに比べれば何ほどのものではない。幕末・明治維新史は西郷と言う偉人の周りで回転していた、そのように氏は言うのだ。

慶応三年十月の大政奉還は、徳川政権が終わりを告げて、天皇を中心とした新しい体制の始まりを告げたのであったが、西郷はそのことに満足しなかった。なぜなら大政奉還後に成立する新しい権力体制には、徳川氏も一諸侯として参加することが認められており、したがって、大政奉還後にも、徳川氏の意向が反映される政治が予想されたからだ。西郷にはそれでは改革がなされたとはいえなかった。徳川氏は完膚なきまでに粉砕されなければならなかったのだ。それ故西郷は、同年の12月に王政復古の号令をかけて天王親裁のもとで徳川氏の意向を削ぎ、更に徳川氏には「辞官納地」を迫るなど、露骨に挑発する動きに出た。翌年正月に始まった戊辰戦争は、徳川方が西郷の仕掛けた罠にはまったことの結果だったのである。

戊辰戦争では、官軍の実態をなしたものは薩摩、長州、土佐の藩兵であった。その官軍に比べ、当初幕府軍の方が圧倒的に優勢だった。にもかかわらず、官軍が勝利した。官軍の方がずっと統制がとれており、武器の性能もよかったからだ。官軍は上野の山にこもった徳川方の軍を粉砕した後、東北へと攻め入っていった。会津戦争はそのヤマ場となった戦いである。

会津戦争と言えば、西郷自身が指揮したように思われがちだが、西郷はその現場にはいなかった。現場で指揮を執っていたのは、薩摩藩では伊地知正治、土佐藩では板垣退助である。全体の戦術は板垣が指揮したということになっている。それ故官軍に敗れて塗炭の苦しみを舐めることになった会津の敗残兵が西郷を恨むのはややお門違いで、彼等は板垣をこそ恨むべきだったということになる。

戊辰戦争が終わり、これからいよいよ近代国家日本の形成という段になって、西郷は征韓論を唱えることになる。この時期になぜ征韓論なのか、筆者には長いこと謎であったのだが、その謎の一端を板野氏がほどいてくれた。軍隊というものの一種の生理現象を、西郷が代弁したというのだ。

先述のように、西郷が中心になって作った官軍は、もともとは、薩摩、長州、土佐の藩兵たちだった。彼らは後に藩兵の身分を捨てて官軍として再編されるわけだが、自分たちこそ御維新を推進した最大の功労者だとの誇りがあった。それゆえ、一方では自分たちの功績が正当に報いられることを求めるとともに、自分たちの活躍の場が引き続き与えられることを望んだ。

ところが、御維新が成就され国内が平定されると、国内には向かうべき敵がいなくなった。これでは軍隊といっても、張子の虎と同然だ。軍隊は戦をして初めて軍隊と言える。

国内に敵を求めることが不可能ならば、国外に敵を求めよう、そう考えるのは理の赴くところと言うべきである。今や敵を求めて功を焦る官軍は、自分たちの代弁者たる西郷を突き上げて、海外に戦場を求めるようになった、それが征韓論として現れた、氏はそういうのである。

なるほど、そういう見方もあったのか、と感心した次第である。

征韓論は実現しなかったが、それは征韓論に国際的な大義名分がなかったからだ。それに対して台湾出兵が実現したのは、それなりの大義名分があったからだ、と氏は言う。明治4年琉球の島民54名が台湾で殺害されたなどの事件があったが、日本政府はそれを主な理由に台湾に出兵した。理屈は、日本国民である琉球島民の保護というものであった。それは清国や国際社会に対して、琉球が日本の一部であることを公然と主張するための格好の理屈として使われたわけなのだという。

この出兵は大久保利光によって遂行されたのであるが、興味深いのは、軍艦6隻に分乗した兵士6000人のうち3600人には、西郷配下の兵士が多数含まれていたことである。大久保にとってこの派兵は、琉球に対する日本の主権の主張と並んで、西郷軍の戦闘意思を発散せせるという、一石二鳥の効果があったわけである。


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このページは、が2012年8月28日 07:41に書いたブログ記事です。

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