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日本語の「ん」は実にユニークな音である。発声上は鼻音の一種であり、口蓋の奥で発した音を鼻から抜けさせるようにして発音する。同様の鼻音は英語やフランス語などのヨーロッパ言語や、中国語などにも存在するが、日本語のユニークなところは、「ん」を独立した一つの音としても使うことにある。

英語において「ん」に相当する音は ng と表記される音であり、goin’ や anchor といった単語の中で、音節の従属的な部分として現れる。フランス語においては、母音の一変形たる鼻母音の構成要素として、an や vingt といった言葉のなかで使われる。中国語において「ん」に相当する ng という音は、ang  とか eng とかいった韻の構成部分の一種(韻尾という)であり、フランス語におけると同様の意味で、母音の構成要素となっている。

上記のいづれの言語にも共通していえることは、「ん」に相当する音は、音節の従属的な部分であって、独立した音ではないということである。

ところが、日本語においては、「ん」はひとつの独立した音なのである。Chang とアルファベットで書けば、全体が一つの音節であるが、「ちゃん」と日本語のかなで書けば、「ちゃ」とは別に「ん」の部分がそれ自体ひとつの音節になる。

それが顕著に現れるのは、詩歌や音楽においてである。たとえば和歌は、五七五七七の配列の中に言葉を割り当てることから成り立つが、この三一文字のなかに、「ん」も立派な成員として加わることができる。また、音楽においては、「ん」もひとつの独立した音として機能できる。上記の諸語においては、決してあり得ないことである。

こんなことから、音楽家の中には、「ん」を母音の一種として考えるものもいるくらいだが、その性格からして、母音とするのはいきすぎで、独立性の高い音韻として分類するのが妥当なところであろう。

現行の50音表を眺めると、「ん」は各音からなる行列の横に、ぽつんとよそよそしく添えられているように見える。また、いろは47文字のなかには「ん」はそもそも含まれていなかった。47文字のあとに「ん」を加え、いろは48文字としたのは後生のことである。

ここから予感されるとおり、「ん」という音韻は古代の日本語にはなかったものなのである。音韻が存在しないから、それを表記するための文字も存在せず、古事記や万葉集には、「ん」に相当する文字が記されていない。ではいつ頃から「ん」という音が日本語に現れたかといえば、それは漢語の受容以後のことだと思われる。

漢語の中には古来の日本語にない音が多く含まれている。それを昔の日本人は、あるものは既存の日本語の音で置き換え、あるものは漢語の音に忠実に発音していたのであろう。たとえば、「山」 san という音、「王」 wang という音などは、それまでの日本語にはなかったから、「王」を「わう」といったりしつつ、漢語を日本語化していったのだと考えられるのである。その過程で、「ん」という音韻が日本語の中に市民権を得るようになり、それを表記するための文字も作られるに至ったのではないか。ただ、「ん」という音韻は新参者であったために、日本語の音韻の配列の中では、いまだによそよそしい扱いを受けているのであろう。


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