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佐倉の祭


関東周辺には、山王権現や神田明神など江戸の祭の面影を今に伝えるとされるものが、そこここに幾つか残っている。川越、佐原、佐倉など、小江戸と呼ばれた小都市の祭である。大元の山王祭神田祭は、いまでは神輿を担ぎまわるのが流儀となってしまったが、これらの祭はいまでも、屋台を引きずり廻している。昔は、きらびやかな人形を飾った山車が行列をなして華やかさを演出したという。

佐倉の祭は徳川時代の前半、城下町が形成されて町人たちが経済力を蓄えるようになってから始まったとされる。地元の人は300年の歴史を有する祭だと誇る。少なくとも、享保6年(1722)には、現在に伝わる摩賀多神社の大神輿が作られたというから、そこから数えても280年がたっている。毎年秋に行われる祭礼では、この大神輿を担ぐとともに、町内ごとに神酒所と称する屋台を引きまわすのである。

文化文政の頃、佐倉の町の経済力がかつてなく高まったのを背景に、祭も華美になり、山王の祭を真似て、盛大な渡御を行うようになった。当時山車の上に据え付けられた人形は、いまでも保存されている。日本武尊や関羽などそれらの人形を見ると、人の身の丈ほどの姿にあでやかさを感ずる。市内の道路の上を塞ぐ電線類が邪魔になって、祭の夜を彩ることがなくなってしまったのは、残念なことである。

祭は明治、大正、昭和と受け継がれ、戦後になってもなお延々と続けられた。佐倉は、かつてのような地域の中核都市としての重みを失い、いまでは、東京近郊のありふれたベッドタウンに化してしまったが、それでも、この祭は大事にしていて、毎年秋には、町をあげて祭礼に没頭するのである。

筆者は、この町に小学校5年生のときに越してきて以来、少年時代には毎年祭の屋台を引いた。その頃筆者の住んでいたところは宮小路といって、摩賀多神社のお膝元なのであるが、何故か神社の宮元はほかの地区になっていて、宮小路のひとびとは神社の神輿が担げないと聞いた。神輿を担ぐのは、宮元たる鏑木の人びとのみだというのである。それでも、子どもの我々にもあてがわれた、ウールの揃いの着物を着て、神酒所といわれた屋台を引き回すのが楽しみだったものである。

後年、筆者は市内の田町というところに移り、それ以来、筆者の子どもたちは田町の神酒所を引くようになった。田町は、佐倉のほかの町と異なり、魔賀多神社ではなく、愛宕神社を土地の神にしていたが、祭礼は共同で行っていたのであった。田町のほか、弥勒町と本町もそれぞれ独自の土地の神をもっているが、やはり祭には共同して参加する。

祭のハイライトは、十月中旬の土曜日に行われる各町内神酒所の連合渡御である。日中町内ごとにばらばらに引き回されていた神酒所が、日の沈むのを合図に、次第に目抜き通りに集まり、それぞれに出来具合の優劣を競う。神酒所は提灯やら何やらで飾られ、屋台の舞台では佐倉囃子のひょっとこ踊りが演じられる。筆者の子どもの頃には、神酒所同士がぶつかり合うようなことなどもあったが、いまはさすがにそんなことはしない。

この年の秋、筆者はあのなつかしい祭をもう一度見ようと思い、すっかり暗くなった佐倉の町を訪れた。京成佐倉駅で降りて目抜き通りへ通ずる坂を上っていく途中、わき道から神酒所の一団が現れた。表町の神酒所である。筆者はすっかりなつかしい気分になって、手子舞姿の子どもたちやら屋台の飾りやらをカメラに収めた。神酒所の屋根の上では、山車人形ならぬ、番傘を振りかざした男たちが気勢をあげて踊っていた。引き手たちの掛け声は「えっさのこらさのえっさっさー」というものである。何時の頃からこんな掛け声をだすようになったか、筆者の記憶には定かでない。少なくとも、筆者の子どもの頃にはそうではなかったような気がする。

坂道が目抜き通りに近づくにつれ、見物人の姿が多くなった。やっとの思いで目抜き通りに入り込むと、ただでさえ広くはない道は、屋台の引き手たちと見物人とでごったがえし、立錐の余地もないという有様である。この道を、各町内の屋台が次々と通り過ぎてゆく。そのたびに、筆者はカメラのシャッターを切った。

どの神酒所も、舞台で佐倉囃子のひょっとこ踊りを演じている。囃子は、篠笛1、大太鼓1、小太鼓(締太鼓)2、鉦1の5人編成で、江戸囃子の流れを汲むものだろう。ひょっとこ踊りも、今日山王や神田明神の氏子に伝わるものとよく似ている。ただ、装束に工夫をこらしているようだ。

そうこうしているうちに夜も更けゆき、8時半頃には渡御の列も通り過ぎてしまった。神酒所たちはそれぞれの町内に戻って、打ち上げをするのであろう。筆者もさる蕎麦屋に入り、腹ごしらえをした次第であった。

筆者が佐倉を去ってからはや7年が過ぎた。この町の普段の佇まいは、筆者が住んでいた頃と変わらず、目抜き通りにも人の姿を見かけることの少ない、ひっそりとした静かな町のままである。この静かな町が、祭の夜ばかりは、まるで甦ったように生き生きとなる。伝統の力というものだろう。


関連サイト: 佐倉連隊にみる戦争の時代






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