2006年11月アーカイブ

子どもの死ほど悲しいものはない。また、子どもの葬儀ほど、みて痛々しいものはない。火葬に付しても、七つ八つくらいまでの小さな子は、骨が十分に発達していないから、あっという間に焼けてしまい、あとには灰しか残らないこともある。それでも、子を失った親たちは、遺灰を小さな壺に収めて家族の墓に葬り、やがては自分たちも一緒に入るよと、その冥福を祈るであろう。

死者をどのように埋葬するかは、民族の死生観や他界観にかかわることであり、その民族の文化の根本をなすものである。肉の復活の思想を根底に置くキリスト教文化においては、遺体は丁寧に飾られて、来るべき復活に備える。遺体を損傷するなど許されざるタブーである。一方、輪廻転生のなかで魂の実体を信ずるインド文化においては、遺体そのものは重大な関心事にならない。

先稿「子規の埋葬談義」の中で、埋葬の諸形態について触れ、別稿では、日本における火葬の始まりについて述べた。子規自身は土葬されたように、明治の半ば頃までは、日本人の埋葬は土葬が圧倒的に多く、火葬は一割程度だったとされる。それも京都などの既成の大都市や、真宗地帯に偏っており、殆どの人は土葬されていたのである。

古事記には、男女の性交や女性器への言及など、性的な表現があちこちに散りばめられている。特に神代の場面に、頻出するのであるが、それらを読んでも淫猥な感じは受けず、むしろほほえましいとの印象を抱く。これは、古代の日本人が、性というものに対して、大らかであったことの表れであるのかもしれない。

日本の神社の中でも、もっとも多くの末社を抱え、規模が大きいとされる八幡神社は、応神天皇とその母君神功皇后を祭神として祀っている。昔から武運の神とされ、源頼朝はじめ武将たちの篤い信仰を集めてきた。また、蒙古襲来や外国との戦争の際には、国家鎮護の切り札ともなってきた。その背景には、両神とりわけ神功皇后の業績に対する、民衆の畏怖と尊敬がある。

ヤマトタケル(日本武尊)の物語は、記紀の説話中、独特の色合いを帯びている。それは基本的には、英雄の物語なのであるが、スサノオやカムヤマトイワレヒコのような万能の英雄としてではなく、悲劇的な英雄として、主人公を描いている。古事記には、ヤマトタケルが父景行天皇から不信の念を抱かれ、征西、東征と目覚しい勲功を立てながら、最後には父にまみえることを得ないままに、倒れるさまが描かれている。ある意味で、義経の悲劇に通ずるところがある。

日本の神話は、神武天皇以降人代に入る。最初の人皇とされる神武は、天孫の直系の子孫として、また大和王権の創立者として、わが国の歴史においては、巨大な存在といえるのであるが、その事跡をめぐっては謎が多く、後世の人々の想像力を駆り立ててきた。

天孫降臨後のニニギの次の世代以降の神話は、地上と海原を舞台に展開する。もはや、高天原の世界との垂直軸の話が語られることはなく、水平軸の話が続く。それにともない、神話の南方起源と思われる部分が随所に見られるようになる。

大人が子どもをどう育てるか、それは民族の根幹をなすことである。また、子どもが大人たちの築き上げた世界をどう受容するか、それは民族の行く末を方向づけるもとである。子どもは小さな大人ではない。彼らは無限の可能性をたたえた器であり、民族の、ひいては宇宙の鏡である。

東京各地の祭りでは、ほとんどどこでも猿田彦が登場して、神幸祭の行列を先導している。長い鼻と赤ら顔の天狗の面をかぶり、一枚歯の高下駄をはき、色あでやかな衣装をまとったその姿は、行列の人気者である。いつの頃から猿田彦が天狗となり、神々の先導役を勤めるようになったか、その鍵は天孫降臨神話の中にある。

天孫降臨神話

| トラックバック(0)

日本神話には、高天原と葦原中国との間の垂直軸の対立と、スクナヒコナの神話に見られるような、あちらの世界とこちらの世界との水平軸の対立があり、この両者が絡み合って、全体としての神話の構造が出来上がっている。だがこの両者は、織物の縦糸と横糸のように、相互依存的な関係にあるわけではなく、中心となるのはあくまで垂直軸である。

天孫降臨に先立つ葦原中国の平定は「ことむけ」と呼ばれている。「ことむけ」とは、言葉で説得して服従させるのが原義であるが、記紀においては、なかなかまつろわぬ国津神たちに対して、力を用いて服従させるさまが描かれている。しかし、その様子は血なまぐさいものでなく、牧歌的でおおらかな雰囲気に満ちている。

異形の神スクナヒコナは、日本神話に登場する神々の中でも、とりわけて異彩を放っている。日本神話において、神というものは本来、高天原という天上の世界との間の垂直軸において語られるものなのに、この神は海の彼方にある常世の国から小さな舟に乗って現れた。また、オオクニヌシのパートナーとなって国づくりを行い、一段落すると、粟の茎に跳ね飛ばされるようにして、身を躍らせ、常世の国に帰っていった。

吉田拓郎といっても、今時の若い人たちにはぴんとこないかもしれない。1970年代の前半に活躍したミュージシャンで、日本のシンガーソングライターの草分けとされる男だ。比較的若くして表舞台を去ってしまったので、大方忘れられたと同様の存在だったが、中高年層を中心に、いまだに根強いファンを持っている。

日本神話におけるオオクニヌシの存在感は、スサノオと並んで大きなものがある。概していえば、日本神話は、天上の世界たる高天原と地上の世界たる葦原の中つ国との間の、対立と連続の相のもとで展開していくのだが、高天原がそれ自体として描かれることは少なく、殆どは葦原中国を舞台にしている。ゼウスやヘラ、ヘパイストスなどがオリンポスにおいて様々な行為を繰り広げるギリシャ神話などとは、大いに異なるところである。オオクニヌシは、この葦原中国を豊かな土地に作り変えた主人公として、日本神話のなかでは特別な存在なのである。

日本神話におけるスサノオの姿は、一方で荒ぶる神として悪行を働くかと思えば、他方では八岐大蛇退治を始め善神としての側面も併せ有し、多義的で複雑な相に描かれている。そこで、スサノオの性格をめぐってさまざまな議論がなされてきた。本居宣長などは、スサノオの悪性はイザナギの禊祓いが不十分で、黄泉の穢れが残ったまま出生したことに原因があるとし、解除をきっかけに穢悪が除かれ、清浄に立ち返ったのだと解釈した。これは、善神としてのスサノオが本来の姿であり、荒ぶる神としてのスサノオは、不完全な姿だという議論である。

シャーマニズムは、シベリアから東南アジアにかけての広範な地域に見られる。いづれもの地域のシャーマニズムも、霊媒的な能力を持った巫者(シャーマン)を中心に、現世とあの世との交流を通じて、死者との対話や未来の予見などを図ろうとする、原始的な宗教意識の体系である。

日本民族の起源については、さまざまな説がある。もっとも有力なのは、ユーラシア大陸から渡来した人々に起源を求めるもので、北方起源説と呼ばれている。遺伝学上、文化人類学上多くの傍証があり、首肯しやすい説だ。しかし、この説のみを以ては割り切れぬ部分があるため、一部南方起源の民族との混交も説かれる。柳田国男は著書「海上の道」において、日本人の祖先とその文化が、海上の道を通って南方からやってきたと、熱心に説いた。

プロ野球では、昨年のロッテ・オリオンズに続いて、今年も外国人監督ヒルマン氏率いる球団日本ハム・ファイターズが優勝した。球団にとっては、実に44年ぶりの日本一ということだ。北海道に移転して4年目、いまではすっかり地元に溶け込み、北海道の人々の熱い応援に答えての優勝だった。

日本における火葬は、文武天王4年(西暦700年)3月に僧道昭を荼毘に付したのが始まりであると、続日本紀の記録にある。大宝2年12月(703年1月)には、持統天皇が歴代の天皇としてははじめて火葬にされ、天皇の孫だった文武天皇、同じく孫の元正とその母元明の両女帝もまた火葬に付された。これ以後、天皇が火葬されるのは、後鳥羽上皇や北朝の各天皇など、一部の例をのぞけば、なされなかったのであるから、8世紀初頭のこの時代は、火葬が一種の文化現象だったことが、察せられるのである。

正岡子規の随筆に、「死後」と題する一篇がある。死の前年、明治34年の2月に書かれた作品である。晩年の子規は、20台半ばにかかった結核がもとで脊椎カリエスを患い、常に死と向かい合った毎日を送っていた。カリエスが悪化して、腰に穴が開くほど苦しい目にあいながら、結核菌が頭脳を明晰にしたためか、創作意欲は衰えることなく、「病床六尺」を始めとして、死に至るまで名品を生み出し続けた。そんな子規が、自分の死を、埋葬に事寄せて語ったのがこの作品である。全篇に子規持ち前のユーモアがあふれ、実にすがすがしい読後感をもたらしてくれる。



アーカイブ

Powered by Movable Type 4.24-ja

本日
昨日

最近のコメント

このアーカイブについて

このページには、2006年11月に書かれたブログ記事が新しい順に公開されています。

前のアーカイブは2006年10月です。

次のアーカイブは2006年12月です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。