2007年1月アーカイブ

万葉集には、柿本人麻呂作と明記されたもの、長歌十九首、短歌七十五首のほか、柿本人麻呂歌集から採られたものが、三百六十首ばかりある。人麻呂歌集中の作品は、人麻呂が自らの作家ノートとして作っていたもののなかから、万葉集の編者が取り上げたのだと考えられている。

柿本人麻呂は、晩年、石見の国の国司として赴任し、そこで土地の女性と結ばれた。女性の名を依羅娘子という。人麻呂が、後に死に臨んで辞世の歌を詠んだのはこの女性に向けてであり、女性もまた、人麻呂の死後に、その死を悼む歌を残している。

万葉集巻三雑歌の部に、柿本人麻呂の覊旅の歌八首が並べて掲げられている。人麻呂が難波から西に向かう旅の途中に歌ったものもあり、逆に西から京へ帰る途中のものもある。いづれも瀬戸内海をゆく船旅の途上詠まれたものと思われる。

能「熊野(ゆや)」は、花見遊山をテーマにした、春の気配溢れる逸品である。「熊野松風に米の飯」といわれ、古来能の名曲とされてきた。今でも人気の高い曲で、能役者にとってもやりがいのある曲だそうだ。謡曲としても人気がある。松風が秋の能の代表作とすれば、熊野は春の能の代表作だといえよう。

配偶者を持たないアメリカ人女性の割合が、2005年には既に51パーセントに達していたとの、人口センサスの分析結果が先日発表された。1950年には35パーセント、2000年には49パーセントだったから、女性の単身者が急速かつ確実に拡大していることを物語っている。

万葉集巻二にある柿本人麻呂の「泣血哀慟の歌二首」は、かつては同じ人の死を悼んだ歌とされていた。しかし、よく読むと、そこには根本的な違いがある。一首目はロマンに満ちた歌であるのに対して、二首目はかなり現実的な調子なのである。しかも、一首目の妻は通い妻であったのに対し、二首目の妻とは同居していた。

万葉集巻二挽歌の部に、「柿本朝臣人麻呂妻死し後泣血哀慟して作る歌二首」が収められている。その最初の歌は、人麻呂が若い頃に、通い妻として通った女人の死を悼んだものとされている。この歌には、愛する人を失った悲しみが、飾り気なく歌われており、その悲しみの情は、21世紀に生きる我々日本人にも、ひしひしと伝わってくる。

万葉集巻二「挽歌」の部には、柿本人麻呂の挽歌数編が収められている。そのうち、皇族の死を悼んで作られたものが四篇あるが、それらは、宮廷歌人としての人麻呂が、宮廷儀礼のために、命じられて作ったものと思われる。人麻呂のほかの挽歌に比べると、格調が高く、荘重な雰囲気に満ちている。

柿本人麻呂は、いうまでもなく万葉の時代を代表する歌人であり、日本の文学史を画する偉大な詩人である。人麻呂によって、歌の様式としての長歌が完成したことはさておき、人麻呂は、相聞的叙景歌というものに磨きをかけることによって、和歌というものの表現の可能性を最大限に引き出した。このことによって、和歌は我が国の言葉の芸術の、核ともなり心ともなった。

若い頃から折に触れて読み親しんできた万葉集。様々な注釈書の世話になったが、筆者が最も参考にしたのは、齋藤茂吉と北山茂夫だった。茂吉には鑑賞のコツのようなものを学んだ。北山茂夫は本業が歴史学者だけあって、万葉人の群像を古代史の文脈の中でとらえており、個々の歌を歴史的な背景に関連付けながら読み直している。そこが得がたい魅力にうつった。

能「融」は世阿弥の傑作の一つである。歴史上の人物源融が作ったという六条河原院を舞台に、人間の栄光と時の移り変わりを、しみじみと謡い語る。筋らしい筋はないが、月光を背景にして、静かに進行する舞台は、幽玄な能の一つの到達点をなしている。だがそれだけに、初めて能を見る人は退屈するかもしれない。

能「屋島」は、世阿弥の書いた修羅能の傑作である。世阿弥は三番目物と同じく、修羅物も得意とし、他に、通盛、敦盛、清経などの傑作を作っている。その中で屋島は、源平合戦における義経の勇敢な戦いぶりを描いたもので、勝修羅と呼ばれる。田村、箙とならんで三大勝修羅とされ、徳川時代には武家たちにことのほか喜ばれた。

男にも更年期障害というものがあるらしい。女の場合のようなドラスチックな身体的変化という形では現れないが、やはり50を過ぎた頃より、心身にわたり著しい機能低下に悩む男は多く、性欲の減退、勃起不全、消耗感、甚だしきはうつ状態といった症状が現れる。従来は加齢のせいと思われていたこれらの症状が、実は男性ホルモンの失調によるものだと、最近の研究で徐々にわかってきたらしいのである。

白拍子は、平安時代末期から鎌倉時代にかけて栄えた芸能の一種である。散楽から派生した諸々の芸能とは異なり、独自の歩みをたどったものらしい。平家物語は、祇王や静御前ら当時の有名な白拍子を描いており、一つの時代を画した遊女のあり方だったように思える。

太平記の時代は、日本の歴史のうちでも、まれに見る動乱の時代であった。権力をめぐる争いが全国規模で展開されたと同時に、古い秩序が瓦解し、人々の生活基盤ががらりと変わりつつあった。このような世にあっては、勝ち組、負け組みの差が歴然となり、人は勝ち残ろうと欲すれば、悪党たちのようにたくましくならないではおれなかったろう。

石母田正の労作「中世的世界の形成」は、伊賀国黒田荘を舞台に、東大寺による古代的な荘園支配が揺さぶられ、荘民たちによる権力の略取と自立を求める過程を描き出していた。やがては、この動きの中から、古代的な支配体制に替わる、封建的な仕組が生まれてくるのであるが、石母田はそこに、中世的世界の形成を読み取ったのであった。

絞首刑の最中に首がちぎれ飛ぶこともあると聞き、驚いた。イラクで起きたことだ。昨年暮のサダム・フセインの処刑に続き、昨日(1月15日)は更に二人、前政権時代の高官が絞首刑に付されたが、その際、サダム・フセインの異父弟で秘密警察長官だったバルザン・イブラヒムの首が、吊るされた直後にちぎれ、頭部と胴体が分離してしまったというのである。

楠木正成は、太平記の群像の中でもとりわけ異彩を放ち、時代のヒーローとして描かれている。南朝方の武将の中で、正成ほど敵を震え上がらせたものはない。戦いぶりといい節度といい、その生き様は、足利方の視点から書かれた「梅松論」においてさえ、あっぱれと賞賛されている。また、戦前の権威主義的な教育にあっては、忠君愛国の士と称揚され、皇居前広場に銅像が立てられたほどであった。

先日、NHKの特集番組が、極地に生きる動物たちの姿を追跡していた。その中で特に印象深かったのは、北極圏の白熊と、南極の皇帝ペンギンたちだった。

菊慈童は、菊花の咲き乱れる神仙境を舞台に、菊の花のめでたさと、その菊が水に滴り不老不死の薬になった由来を語り、永遠の美少年の長寿を寿ぐ曲である。リズミカルな謡に乗って、美少年が演ずる舞は、軽快で颯爽としており、この曲を魅力あるものにしている。華やかな舞尽くしの能である。

NHKテレビ恒例の新春能番組が、今年は意外にも「翁」を放送した。「意外にも」というのは、「翁」は能にして能にあらずといわれるように、通常の能楽とは異なり、筋らしい筋もなく、呪術的で単調な舞が続くのみの、どちらかというと、あまり面白くない番組だからだ。

世阿弥が能楽の発展のために果たした役割には偉大なものがある。その業績は多岐にわたるが、なかでも重要なのは、複式夢幻能という様式を完成させたことだ。観阿弥以前の能楽は、観阿弥自身物真似といったように、世俗的な内容のものか、あるいは寺社の祭礼に事寄せて、鬼や神を演じるというのもであった。世阿弥の夢幻能によって、能楽は表現を深化させ、一層幽玄なものとなったのである。

観阿弥の能

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観阿弥は猿楽中興の祖であり、今日に伝わる能楽の元祖ともいうべき人物である。室町時代初期、農民層を相手に細々と興行していた猿楽を、一躍表舞台の芸能に引き上げ、また、自身いろいろな試みを通じて、その芸術性を飛躍的に高めた。その子世阿弥とともに、能楽が日本の代表的な芸能として長く栄えていくための、礎を築いたのである。

世界中に現存する伝統芸能のうちでも、能は格別に古い歴史を有する。観世流の源流たる大和の結崎座が立てられたのは14世紀半ば、今熊野において催された観阿弥の猿楽が、将軍足利義満の目に留まったのは1375年のこととされているから、そこから数えても600年以上も経っている。

能「海人」は、「申楽談義」に「金春の節」とあるので、世阿弥以前の古い能のようである。当の金春流では、この作品は多武峰への奉納のために作られたと伝えているらしい。金春に限らず、大和四座と呼ばれた申楽は、多武峰への奉納を義務付けられていた。多武峰は興福寺、春日大社と並んで、藤原氏とかかわりの深いところであったから、藤原氏ゆかりの伝説を能に仕立てたのではないか。

能「百萬」は、観阿弥の作とされ、それに世阿弥が手を加えて今日の姿になったとされる。観阿弥自身は、この曲を「嵯峨女物狂」と題して、得意にしていたという。子別れと女の狂いをテーマにした作品だが、悲しさや暗さはなく、むしろ全曲が華やかな色彩感に溢れている。そのため、正月にもよく演じられる。

能「羽衣」は、天女伝説に題材をとった作品である。天女あるいは羽衣の伝説は、日本の各地に広く分布しており、また、歴史的に見ても、古風土記に取り上げられるほど古い起源のものである。能はそのうち、三保の松原に伝わる伝説を取り上げている。世阿弥の作という説もあるが、詞章や音楽的な要素から見ると、その可能性は低い。だが、明るくあでやかな能であり、正月を飾るものとしてよく演じられる。

「高砂」は世阿弥の書いた脇能の傑作である。全編が祝祭的な雰囲気に満ちており、祝言の能として長く人びとに愛されてきた。「四海波」や「高砂や」の一節は、今でも結婚式の席上で謡われている。能に関心のない人でも、知らない者はないであろう。とにかく目出度いものなので、正月を飾るものとして最も相応しいといえる。



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