柿本人麻呂:別れに臨んで妻を恋ふる歌

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柿本人麻呂は、晩年、石見の国の国司として赴任し、そこで土地の女性と結ばれた。女性の名を依羅娘子という。人麻呂が、後に死に臨んで辞世の歌を詠んだのはこの女性に向けてであり、女性もまた、人麻呂の死後に、その死を悼む歌を残している。

万葉集巻二相聞の部には、人麻呂が石見から上京するときの歌二首が収められている。人麻呂は国司として、石見の国府に勤める間、時に公用を帯びて上京したのであろう。この歌は、そんな際に作ったものと思われる。もとより、一時的な別れであったのかもしれないが、人麻呂は、愛する人との別離を切々と歌うことによって、夫婦の間の愛をこの上なく親密なものに高めた。

別離の歌は、他の歌人にもあるが、妻との別れを歌ったものは、人麻呂のこの歌を以て嚆矢とする。中国の詩人には、友や肉親との別れを歌ったものが数多くあり、詩の大きなジャンルともなっているが、このように、妻との別れを詩情に高めたものはあまり例がない。

―柿本朝臣人麿が石見国より妻に別れ上来(まゐのぼ)る時の歌二首、また短歌
  石見の海(み) 角(つぬ)の浦廻(うらみ)を
  浦なしと 人こそ見らめ 潟なしと 人こそ見らめ
  よしゑやし 浦はなくとも よしゑやし 潟はなくとも
  鯨魚(いさな)取り 海辺(うみへ)を指して
  渡津(わたづ)の 荒礒(ありそ)の上に か青なる 玉藻沖つ藻
  朝羽振(はふ)る 風こそ来寄せ 夕羽振(はふ)る 波こそ来寄せ
  波の共(むた) か寄りかく寄る 玉藻なす 寄り寝し妹を
  露霜(つゆしも)の 置きてし来れば
  この道の 八十隈(やそくま)ごとに 万(よろづ)たび かへり見すれど
  いや遠に 里は離(さか)りぬ いや高に 山も越え来(き)ぬ
  夏草の 思ひ萎(しな)えて 偲(しぬ)ふらむ 妹が門見む 靡けこの山
反歌二首
  石見のや高角(たかつぬ)山の木(こ)の間より我(あ)が振る袖を妹見つらむか
  小竹(ささ)が葉はみ山もさやに乱れども吾(あれ)は妹思ふ別れ来(き)ぬれば
或ル本ノ反歌
  石見なる高角山の木の間よも吾(あ)が袖振るを妹見けむかも

この長歌は、妻の住む石見の角の浦を、そことなく描写するところから始まる。人麻呂の長歌には、雄大なイメージで始まるものが多いのだが、ここでは別れ行く妻への思いがそうさせたのだろう。

ここには、浦もなし、潟もなし、荒涼たる荒磯であるが、そこには愛する妻が住んでいる。その「玉藻なす 寄り寝し妹を」一人置いて、自分は旅に出なければならない。非常に素直な歌い方ではないか。

しかして、道が進むに従い、「万たび かへり見すれど いや遠に 里は離り」、妻のいるところから遠ざかってしまった。妻もまた、私を偲んで「夏草の 思ひ萎えて」いることだろう。だから、山よ、なびき開いて我々を互いに見られるようにして欲しい。これが、一篇の趣旨である。

短歌にも、妻を思いやる感情が素直に現れている。木の間より袖を振っている私の姿を、妻は見ているだろうかと歌い、また、笹の葉が乱れる以上に、私の心は妻を偲んで乱れていると歌う。これ以上に、感情が凝縮した歌はそう作れるものではない。相聞歌人としての人麻呂の、一つの到達点であったといえる。

二つ目の長歌も同じ情景を歌いつつ、一首目とはまた異なった趣を醸し出している。

  つぬさはふ 石見の海の 言(こと)さへく 辛(から)の崎なる
  海石(いくり)にそ 深海松(ふかみる)生ふる 荒礒にそ 玉藻は生ふる
  玉藻なす 靡き寝し子を 深海松の 深めて思(も)へど
  さ寝し夜は 幾だもあらず 延(は)ふ蔦の 別れし来れば
  肝向かふ 心を痛み 思ひつつ かへり見すれど
  大舟の 渡の山の もみち葉の 散りの乱(みだ)りに
  妹が袖 さやにも見えず 妻隠(つまごも)る 屋上(やかみ)の山の
  雲間より 渡らふ月の 惜しけども 隠ろひ来つつ
  天伝(あまつた)ふ 入日さしぬれ 大夫と 思へる吾(あれ)も
  敷布の 衣の袖は 通りて濡れぬ
反歌二首
  青駒(あをこま)が足掻(あがき)を速み雲居にそ妹があたりを過ぎて来にける
  秋山に散らふ黄葉暫(しま)しくはな散り乱りそ妹があたり見む

「さ寝し夜は 幾だもあらず」とあるように、二人は結ばれて日が浅かったのかもしれない。だからこそ、互いに別れるつらさはひとしおだったのだろう。「大夫と 思へる吾も」妻を恋ふる情に耐えられないのだと、人麻呂は歌い、「敷布の 衣の袖は 通りて濡れぬ」と告白する。

大夫が泣くことは、普通ではありえぬことだ。その大夫を自負する人麻呂が、妻を思う心が切ないあまり、つい袖をぬらしてしまったのである。

人麻呂のこれらの歌に対する妻の歌が、万葉集には、併せて載せられている。

―柿本朝臣人麿が妻依羅娘子(よさみのいらつめ)が、人麿と相別るる歌一首
  な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか吾が恋ひざらむ

人麻呂の最後の妻だったらしい依羅娘子は、人麻呂の思いに応えうるほど感受性に冨み、また、歌を歌えるほどの教養を兼ね備えた女であったらしい。


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