山上憶良:子を思う歌(万葉集を読む)

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万葉集の歌の世界には、人麻呂、赤人を筆頭にして、男女の愛を歌った相聞の歌が数限りもなくある。だが山上憶良は、他者のための挽歌は別にして、男女の愛を歌うことはなかった。そのかわりに億良は、子どもを思う歌を作ったのである。

山上憶良の子どもを思う歌は、いづれも六十歳代半ば以降の作である。高齢でのことからして、評者には、我が子のことではなく、フィクションとして作ったのだろうという見方もある。だが、個々の歌を読むと、フィクションとは思われぬ迫力があるし、歌の中に流れる親子の情愛は、億良その人の魂からほとばしり出た輝きに満ちている。こんなところから、これら一連の作品は、億良自身にかかわることだと考えてよい。

億良の子を思う歌の代表作は、万葉集巻五にある「老身重病年を経て辛苦しみ、また児等を思ふ歌」である。

―老身重病年を経て辛苦(くる)しみ、また児等を思ふ歌五首 長一首、短四首
  玉きはる 現(うち)の限りは 平らけく 安くもあらむを
  事もなく 喪なくもあらむを 世間(よのなか)の 憂けく辛けく
  いとのきて 痛き瘡(きず)には 辛塩を 灌ぐちふごとく
  ますますも 重き馬荷に 表荷(うはに)打つと いふことのごと
  老いにてある 吾が身の上に 病をら 加へてしあれば
  昼はも 嘆かひ暮らし 夜はも 息づき明かし
  年長く 病みしわたれば 月重ね 憂へさまよひ
  ことことは 死ななと思へど 五月蝿(さばへ)なす 騒く子どもを
  棄(うつ)てては 死には知らず 見つつあれば 心は燃えぬ
  かにかくに 思ひ煩ひ 音のみし泣かゆ(897)
反歌
  慰むる心は無しに雲隠れ鳴きゆく鳥の音のみし泣かゆ(898)
  すべもなく苦しくあれば出で走り去(い)ななと思へど子等に障(さや)りぬ(899)
  水沫(みなわ)なす脆き命も栲縄(たくなは)の千尋にもがと願ひ暮らしつ(902)
  しづたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも(903)
  去ル神亀二年ニ作メリ。但類ヲ以テノ故ニ更ニ茲ニ載ス
天平五年六月の丙申の朔三日戊戌作めり。

詞書に天平五年(733)の作とあるから、この時、億良は七十をとうに過ぎていた。こんな老年になってもなお、気遣わずにはおれぬ幼い子があったのだろう。

「老いにてある 吾が身の上に 病をら加へてしあれば」とあるから、億良は老いて病に苦しんでいた。その病は、「いとのきて痛き瘡には 辛塩を灌ぐちふごとく」つらく苦しい病だったのだろう。億良は苦しみのあまり、「ことことは 死ななと」思うのであるが、「五月蝿なす 騒く子どもを」傍に見て、「棄てては 死には知らず」ただただ我が身を思い煩う。

四首の短歌は、いづれも優れたものである。二首目は長歌を凝縮してリフレインし、四首目は、こんな数にもあらぬ身ではあるが、子のために千年でもいき続けたいと絶叫している。

古今東西の詩歌の中で、こんなにも深く親子の情をうたったものを、筆者は多くは知らない。

同じく万葉集巻五にある次の歌は、序にあるとおり、筑前国守時代、視察の途中に作ったものである。先の歌よりは、少し前に作られたもので、これにも子を思う親の気持ちが素直に表現されている。
 
―子等を思ふ歌一首、また序
  瓜食(は)めば 子ども思ほゆ 栗食めば まして偲はゆ
  いづくより 来りしものぞ 眼交(まなかひ)に もとなかかりて
  安眠(やすい)し寝(な)さぬ(802)
反歌
  銀(しろかね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも(803)

旅先で瓜を出されて食っていると、子どもの顔が思い出される。その子は恐らく、瓜が好物だったのだろう。次に栗を出されて食うと、いっそう子どもの顔が思い出される。子どもとはどこからやってきた賜物なのだろう。その顔がまぶたのうちに焼きついて、寝ることもできない。実に慈愛に満ちた、人間の情愛がここにはある。

反歌は、億良の数ある歌のうちでも、とりわけて有名なものである。この一首には、弱いものへの同情と、幼いものへの慈愛を身上とした、ヒューマンな歌人億良のエッセンスのようなものが籠められている。

万葉集巻二にある次の歌は、大宰府時代に大伴旅人の催した宴会の席上、中座する言訳に億良が即興に作った歌だと思われている。

―山上臣憶良が宴より罷るときの歌一首
  憶良らは今は罷らむ子泣くらむ其も彼の母も吾を待つらむそ(337)

幼い子やその母が、私を今か今かと待っていますので、ここらで中座させていただきたい、そんな気持ちを歌ったのであろう。ユーモアの中に、妻子を思いやる老人の暖かい雰囲気が伝わってくるようである。


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    コメント(1)

    私は今国語の授業で山上億良を調べる学習を
    しています。すごく家庭的な人だなーと私は思いました。
    私が知りたいのは山上億良の妻の名前です。
    どこを探しても見つからないのですごくしりたいです^^
    後山上億良は子供は何人いるんですか?w
    すごく知りたいです^^w

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