大伴旅人:酒の讃歌

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大伴旅人の作の中でもとりわけ名高いのは、酒を讃めた歌である。万葉集巻三に、億良、満誓の歌に挟まれたかたちで、十三首が並べられている。

―太宰帥大伴の卿の酒を讃めたまふ歌十三首(338)
  験(しるし)なき物を思はずは一坏(ひとつき)の濁れる酒を飲むべくあらし(339)
  酒の名を聖(ひじり)と負ほせし古の大き聖の言の宣しさ(340)
  古の七の賢(さか)しき人たちも欲(ほ)りせし物は酒にしあらし(341)
  賢しみと物言はむよは酒飲みて酔哭(ゑひなき)するし勝りたるらし(342)
  言はむすべ為むすべ知らに極りて貴き物は酒にしあらし(343)
  中々に人とあらずは酒壷(さかつぼ)に成りてしかも酒に染みなむ(344)
  あな醜(みにく)賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む(345)
  価(あたひ)なき宝といふとも一坏の濁れる酒に豈(あに)勝らめや(346)
  夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るに豈及(し)かめやも(347)
  世間(よのなか)の遊びの道に洽(あまね)きは酔哭するにありぬべからし(348)
  今代(このよ)にし楽しくあらば来生(こむよ)には虫に鳥にも吾は成りなむ(349)
  生まるれば遂にも死ぬるものにあれば今生なる間は楽しくを有らな(350)
  黙然(もだ)居りて賢しらするは酒飲みて酔泣するになほ及かずけり(351)

いづれも佳作というべき、粒ぞろいの作品群である。人麻呂の恋でもなく、赤人の自然でもなく、酒を詠んだこれらの歌は、万葉の世界の中に新しい息吹を持ち込んだ。広い意味では、述懐の歌といえようが、酒に寄せて人生の快楽を謳歌するような作品は、旅人以前の万葉の歌にはなかったものである。

中国には、すでに陶淵明という大詩人が、おおらかに酒を歌っていた。教養深い旅人のことであるから、当然陶淵明の詩にも接していたであろう。大伴旅人は、同じように酒を歌いながら、さらりとした感性のもたらすすがすがしさと、現世肯定のおおらかな生き方を感じさせる。そこが、現代の日本人にも親しみやすく受け取られるのである。

十三首の歌は、旅人自身によって念入りに配されたと思われる。冒頭の(339)の歌は、全体のプロローグにふさわしく、旅人の酒とのかかわりを過不足なく歌い上げている。この時代の酒は濁酒だったのだろうか、つまらぬことに思い煩うのはやめ、さあ濁酒の杯をとろうではないか、そう歌う旅人の洒脱な姿が、世紀を超えてよみがえってくるようだ。

酒は聖であるといい、古の七賢人も欲したといい、また言いようもなく尊いものであって、価なき玉や夜光る玉にも替えがたいものだと歌う。賢者ぶって生きているより、酒を飲んで酔泣きするほうがどれほどすばらしいことかわからない。賢者ぶって酒を飲まぬものをよくみれば、猿にそっくりではないか。さあさあ、酒を飲むべしというわけである。

この猿のたとえは奇抜なものだ。これを読んで、筆者は明治の反骨漢成島柳北の詩を連想した。柳北は航西日乗の中に、シンガポール沖を通りがかった際にしたためた次のような詩を載せている。

   幾個蛮奴聚港頭  幾個の蛮奴港頭に聚る
   排陳土産語啾々  土産を排陳して語啾々
   巻毛黒面脚皆赤  巻毛黒面脚皆赤し
   笑殺売猿人似猿  笑殺す猿を売る人猿に似たるを

柳北は、我らが万葉の歌人を意識して、この詩を作ったのではないかもしれない。気に入らぬものを罵倒するに際して、猿を持ち出すところは、洒脱な人間が時代をまたがって共有するユーモアなのだろう。

(349),(350)の両歌は、酒ももたらす快楽のかけがえなさを歌っている。人生というものは、所詮この世での快楽がすべてなのだとでも、いいたげである。

これらの歌は、大伴旅人という歌人のスケールの大きさを感じさせる。このように開き直った快楽肯定の姿勢は、この後の日本の文化的伝統の中に、そう多く見出すことはできない。


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