大伴旅人:松浦川の歌と松浦佐用姫伝説

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酒を讃むる歌で、洒脱さを遺憾なく発揮した大伴旅人は、万葉の歌人たちの中でも、どことなく浮世離れした、独特の感性を歌い上げ、この国の詩歌の歴史に清新な風を吹き込んだ。その感性は、世の中とそこに生きる己を、遠くから距離を置いて、突き放すように見ているところがある。旅人以前の日本人たちには決して見られなかったものだ。

そんな旅人が、虚構の世界に遊んだ歌を作ったのも不思議ではない。万葉集巻五にある「松浦河に遊びて贈り答ふる歌」は、旅人の遊びの精神にして始めて生み出すことのできた、古代の日本でも特筆すべき作品といえよう。

松浦川とは、肥前の国を流れる川。現在では佐賀県内を流れる小河川で、唐津湾に注いでいる。旅人は管内巡察の途次、名勝として知られたこの川を訪れたのだろう。その上流を神仙境に見立て、そこを舞台にして、乙女との夢のような出会いを、歌物語の形に展開した。

旅人は、この作品の着想を中国の唐の時代の神仙物語「遊仙窟」などに求めたと思われる。神仙境を舞台に繰り広げられる、一種の好色ものである。遣唐使のもたらした中国の文物のうちで、こうした好色物語は、当時の知識人に刺激を与えていたらしい。旅人は、そんな風潮を念頭に置きながら、この作品を作ったのだろう。

一篇は、漢文風の序と、乙女との間で交わされた歌の贈答からなる。

―松浦河に遊びて贈り答ふる歌八首、また序
余暫く松浦県に往きて逍遥し、玉島の潭に臨みて遊覧するに、忽ち魚釣る女子等に値(あ)へり。花容双び無く、光儀匹ひ無し。柳葉を眉中に開き、桃花を頬上に発(ひら)く。意気雲を凌ぎ、風流世に絶えたり。僕問ひけらく、「誰が郷誰が家の児等ぞ。若疑(けだし)神仙ならむか」。娘等皆咲みて答へけらく、「児等は漁夫の舎(いへ)の児、草菴の微(いや)しき者、郷も無く家も無し。なぞも称(な)を云(の)るに足らむ。唯性水に便り、復た心に山を楽しぶ。或は洛浦に臨みて、徒に王魚を羨(とも)しみ、乍(あるい)は巫峡に臥して空しく烟霞を望む。今邂逅(わくらば)に貴客(うまひと)に相遇(あ)ひ、感応に勝へず、輙ち款曲を陳ぶ。今より後、豈に偕老ならざるべけむや」。下官対ひて曰く、「唯々(をを)、敬みて芳命を奉はりき」。時に日は山西に落ち、驪馬去なむとす。遂に懐抱を申(の)べ、因て詠みて贈れる歌に曰く、
  漁りする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人(うまひと)の子と(853)
―答ふる詩に曰く、
  玉島のこの川上に家はあれど君を恥(やさ)しみ顕はさずありき(854)

松浦川を遡っていくうちに、川に鮎を釣る乙女に出合った。類なくたおやかな彼女に対して、恋心を抱いた貴公子が歌を贈る。その歌をきっかけにして、貴公子と乙女との恋の駆け引きが始まる。

―蓬客等また贈れる歌三首
  松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ(855)
  松浦なる玉島川に鮎釣ると立たせる子らが家道知らずも(856)
  遠つ人松浦の川に若鮎(わかゆ)釣る妹が手本を我こそ巻かめ(857)
―娘等また報ふる歌三首
  若鮎釣る松浦の川の川波の並にし思はば我恋ひめやも(858)
  春されば我家の里の川門(かはど)には鮎子さ走る君待ちがてに(859)
  松浦川七瀬の淀は淀むとも我は淀まず君をし待たむ(860)
―後れたる人の追ひて和める詩三首 都帥老
  松浦川川の瀬早み紅の裳の裾濡れて鮎か釣るらむ(861)
  人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてや我は恋ひつつ居らむ(862)
  松浦川玉島の浦に若鮎釣る妹らを見らむ人の羨(とも)しさ(863)

「鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ」との貴公子の歌に、乙女は「鮎子さ走る君待ちがてに」と応える。架空の神仙境を舞台に繰り広げられる恋の歌のやりとりは、当時の人々にとっては新鮮なものに映ったに違いない。

旅人のこの作品に触発されたのか、山上憶良は松浦佐用姫を詠んだ歌を作った。

―山上臣憶良が松浦の歌三首
憶良誠惶頓首謹啓す。憶良聞く、方岳の諸侯、都督の刺使、並(みな)典法に依りて部下を巡行し、其の風俗を察(み)る。意内端多く、口外出し難し。謹みて三首の鄙歌を以て、五蔵の欝結を写さむとす。其の歌に曰く、
  松浦県佐用姫の子が領巾(ひれ)振りし山の名のみや聞きつつ居らむ(868)
  足姫(たらしひめ)神の命の魚(な)釣らすとみ立たしせりし石を誰見き(869)
  百日(ももか)しも行かぬ松浦道今日行きて明日は来なむを何か障れる(870)
―天平二年七月の十一日、筑前国司山上憶良謹みて上る。

松浦佐用姫は、肥前の国に伝わる伝説の主人公であった。大伴旅人には遠縁にあたる大伴狭手彦が、新羅の国に向かって出発するにあたり、いつまでも袂を振って、その後を追ったという話である。佐用姫は七日の間泣きはらしたあげく、ついには石になってしまったという。

後年、旅人自身もまた、佐用姫の伝説を歌物語にした。

―領巾麾(ひれふり)の嶺を詠める歌一首*
大伴佐提比古(さでひこ)の良子(いらつこ)、特(ひとり)朝命(おほみこと)を被ふり、藩国に奉使(ま)けらる。艤棹(ふなよそひ)して帰(ゆ)き、稍蒼波を赴(あつ)む。その妾(め)松浦佐用嬪面(さよひめ)、此の別れの易きを嗟(なげ)き、彼(そ)の会ひの難きを嘆く。即ち高山の嶺に登りて遥かに離(さか)り去(ゆ)く船を望む。悵然として腸を断ち、黯然として魂を銷(け)つ。遂に領巾を脱きて麾(ふ)る。傍者流涕(かなし)まざるはなかりき。因(かれ)此の山を領巾麾の嶺と曰(なづ)くといへり。乃ち作歌すらく、
  遠つ人松浦佐用姫夫恋(つまこひ)に領巾振りしより負へる山の名(871)
―後の人が追ひて和(なぞら)ふる歌一首
  山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上(へ)に領巾を振りけむ(872)
―最(いと)後の人が追ひて和ふる歌一首
  万代に語り継げとしこの岳(たけ)に領巾振りけらし松浦佐用姫(873)
―最最(いといと)後の人が追ひて和ふる歌二首
  海原(うなはら)の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫(874)
  ゆく船を振り留みかね如何ばかり恋しくありけむ松浦佐用姫(875)

大伴旅人には、民間伝承のうちにロマンを感じ取り、それを歌物語にするような、風雅な一面があった。


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    このページは、が2007年3月20日 19:25に書いたブログ記事です。

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