海ゆかば:大伴家持の伴造意識(万葉集)

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大伴家持の生きた時代は、人麻呂の時代とは異なって、常に内乱の危機をはらんだ政治的動揺の時代であった。737年に流行した大疫によって、藤原武智麻呂はじめ、藤原氏の実力者が次々と死に、政治的な空白ができたのがその原因である。藤原氏にとってかわって、橘諸兄が一時的に権力を握ったが、安定したものとはいいがたかった。740年には、藤原博継による大規模な内乱がおきている。

聖武天皇は、こうした事態を憂え、救いを仏教に求めた。そして、仏教布教のシンボルとして東大寺大仏の建立を始める。そのさなかに、奥州で金が発見され、大仏建立のために寄進されるということがおきた。

喜んだ聖武天皇は、東大寺に赴いて、宣命を発した。その中で、黄金の発見が皇祖の恵であることを述べ、人民にその恵を分かち与えるとともに、臣下の労をねぎらった。その際に、大伴、佐伯の二氏に対して、天皇への忠誠をあらためて訴えた。

大伴、佐伯の両氏は、古くから皇室の「内の兵」として、特別な家柄であった。物部氏が国軍を統括するものであるのに対し、この両氏は天皇の近衛兵のような役柄を勤めてきたのである。天皇は、この内乱の危機をはらんだ時代を憂えて、あらためてことさらに、両氏へ忠誠を求めたのである。

その宣命の中に、次のような言葉がある。

―大伴佐伯の宿禰は常もいふごとく天皇朝守り仕へ奉ること顧みなき人どもにあれば汝たちの祖どもいひ来らく、海行かば水浸(みづ)く屍(かばね)山行かば草生(む)す屍王の辺にこそ死なめのどには死なじ、といひ来る人どもとなも聞召す、ここをもて遠天皇の御世を始めて今朕が御世に当りても内の兵と心の中のことはなも遣はす(続日本紀)

「海行かば水浸く屍山行かば草生す屍」の一節は、先の大戦中に、戦意高揚のために利用され、もてはやされたから、年配の人はよく覚えていることだろう。もともとは、大伴佐伯両氏の間に伝わっていた、戦闘歌謡であった。

この時、家持は越中にあったが、使者を通じて宣命を知り、また贈位を賜った。感激した家持は、一遍の長編の歌を作り、天皇の期待に応えた。

この歌の中には、大伴氏の伝統を背負った家持の、伴造意識が鮮やかに表れている。我々はそれを読むことによって、古代における氏族の意識の一端に触れることができる。-

―陸奥国より金を出だせる詔書を賀く歌一首、また短歌
  葦原の 瑞穂の国を 天下り 知らしめしける
  すめろきの 神の命の 御代重ね 天の日継と
  知らし来る 君の御代御代 敷きませる 四方の国には
  山河を 広み厚みと たてまつる 御調(みつき)宝は
  数へ得ず 尽くしもかねつ 然れども 我が大王の
  諸人(もろひと)を 誘ひ賜ひ 善きことを 始め賜ひて
  金(くがね)かも たのしけくあらむ と思ほして 下悩ますに
  鶏が鳴く 東の国の 陸奥の 小田なる山に
  金ありと 奏(まう)し賜へれ 御心を 明らめ賜ひ
  天地の 神相うづなひ 皇御祖(すめろき)の 御霊助けて
  遠き代に かかりしことを 朕(あ)が御代に 顕はしてあれば
  食(を)す国は 栄えむものと 神ながら 思ほしめして
  もののふの 八十伴の雄を まつろへの むけのまにまに
  老人(おいひと)も 女童児(めのわらはこ)も しが願ふ 心足(だ)らひに
  撫で賜ひ 治(をさ)め賜へば ここをしも あやに貴(たふと)み
  嬉しけく いよよ思ひて 大伴の 遠つ神祖(かむおや)の
  その名をば 大来目主(おほくめぬし)と 負ひ持ちて 仕へし職(つかさ)
  海行かば 水漬(みづ)く屍(かばね) 山行かば 草生(む)す屍
  大王の 辺(へ)にこそ死なめ かへり見は せじと異立(ことだ)て
  大夫の 清きその名を 古よ 今の現(をつつ)に
  流さへる 祖(おや)の子どもそ 大伴と 佐伯の氏は
  人の祖(おや)の 立つる異立て 人の子は 祖の名絶たず
  大君に まつろふものと 言ひ継げる 言の官(つかさ)そ
  梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き
  朝守り 夕の守りに 大王の 御門の守り
  我をおきて また人はあらじ といや立て 思ひし増さる
  大王の 御言の幸(さき)の 聞けば貴み(4094)
反歌三首
  大夫の心思ほゆ大王の御言の幸(さき)の聞けば貴み(4095)
  大伴の遠つ神祖の奥つ城は著(しる)く標(しめ)立て人の知るべく(4096)
  すめろきの御代栄えむと東なる陸奥山に金(くがね)花咲く(4097)

「詔書を賀く歌」と題している通り、天皇の詔書そのものをたたえたこの歌は、詔書の内容をところどころ引用しながら、皇室の尊厳と伴造としての一族の忠誠を高らかに歌い上げている。詔書そのものには、聖武天皇が自らを仏の奴といっているように、仏への言及があちこちにあるが、家持の歌にあるのは、古事記的な古代のイメージばかりである。

「梓弓 手に取り持ちて 剣大刀 腰に取り佩き 朝守り 夕の守りに 大王の 御門の守り 我をおきて また人はあらじ といや立て 思ひし増さる  大王の 御言の幸(さき)の 聞けば貴み」と歌い収めるところには、武の名門大伴氏を背負う家持の、強烈な伴造意識がほとばしり出ている。


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    このページは、が2007年4月10日 19:41に書いたブログ記事です。

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