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エリツィンの功罪


ボリス・エリツィン Борис Николаевич Ельцин が死んだ。76歳、死因は持病の心臓病だったようだ。これで、20世紀の世界史を彩った立役者が、もう一人いなくなった。

エリツィンはいうまでもなく、ソ連を瓦解に導いた人物である。1917年のボリシェヴィキ革命以来。70年以上も持続し、一時は混乱する資本主義に変わる新しい社会システムといわれた共産主義社会だが、20世紀も末近くになると様々な部分で制度疲労を起こし、もはや一国を導くモデルとしては機能しなくなっていた。

だが、社会の隅々まで根を下ろした共産主義体制は、そう簡単には瓦解しないものと思われていた。ゴルバチェフはそんな共産主義を民主化する努力を重ねたが、体制そのものを否定する考えは持たなかった。社会のシステムの崩壊は、巨大な外圧がなければできないものなのだ。

エリツィンはそれをあっさりとやってのけた。彼自身が、共産主義体制にとっては巨大な外圧だったのである。

1991年、ゴルバチョフの行き過ぎた民主化に反発する勢力がクーデターを起こしたとき、エリツィンは率先して反乱軍に立ち向かい、タンクの上からロシアの民衆に呼びかけた。彼のこの英雄的な行為が民衆の心をとらえ、やがては彼を核にして巨大なエネルギーとなって沸騰し、共産主義のソビエト体制を瓦解へと追い込んでいくのである。

エリツィンの功罪については、さまざまな議論がある。彼はソビエト体制を崩壊させただけでなく、その後のロシア社会の舵取り役も勤めなければならなかった。破壊者としてだけならもっと気楽でおれただろうし、歴史家たちの評価も単純なものだったろう。しかし、彼は新制ロシアの大統領として、全く未知の建設作業を進めなければならなかった。その過程で生じたさまざまな曲折が、彼を批判する材料をいくらでも投げかけるのである。

エリツィンの進めた政策は、ロシアを西欧並みの民主主義的、資本主義的な社会に作り替えることだった。政治面では共産党の一党独裁を解体し、選挙による議会制度と、それを舞台にした政党間の論争を許容し、またメディアに言論の自由を保障した。エリツィン時代には大小様々なメディアが雨後の竹の子のように生じ、言論界は百花繚乱の様相を呈したのである。

経済面では、曲がりなりにも市場原理を導入し、民間主導の競争社会に道をひらいた。

これらの政策が順調な結果をもたらしたかどうかは、無論議論のあるところだ。エリツィンは経済学の知識など全く持ち合わせていなかったし、起用した政治家も有能とはいえなかったので、一時期経済は破綻し、ロシアは猛烈なインフレと財政破綻に苦しんだ。また、政治的な寛容は守旧勢力の巻き返しを許し、政情は常に安定しなかった。エリツィンが時に見せた、政敵への仮借のない攻撃は、政治家としての彼の暗い側面ともされているが、その裏側には反対者の存在を許容する彼の姿勢があったのだ。

このように、新制ロシアの旅立ちは、決して順調だったとはいえず、国民にとって暮らしやすい社会がすぐに到来したとはいえなかったのである。

加えて、エリツィン自身にも人間的な弱さがあった。彼のやりかたは気まぐれで乱暴なところが多く、ためにシロクマなどと罵られた。また、エリツィンは大酒飲みで、自制心がなかった。それに若い頃からの持病たる心臓病のために、重大な節目に政治の表舞台から消えてしまうようなことがよくあった。

こんなことから、エリツィンは人間的には欠点だらけの、ろくでもない男だといわれるような側面ももっていたのである。

歴史家の中には、ソビエトの崩壊には歴史的な必然性があったのであり、エリツィンはその流れに棹さしたに過ぎないとする見解もある。だが、どんな歴史的必然性があろうと、変化の可能性を現実のものに転換させるのは人間の力だろう。エリツィンがいなかったら、ソビエトが果たして崩壊したか、それはかなり怪しいことだ。今日あんなにも破綻しきった北朝鮮が、依然命脈を保ち得ていることを、よく見てみたらよい。

こうしたことから、エリツィンは20世紀の世界史を彩る一級の人物だったといえるのである。

ボリス・エリツィンは、1931年ウラル地方の都市スヴェルドロフスクに生まれた。兄弟同士山羊を囲んで寄り添いあい、寒さを忍んだほどの貧しい生活だった。

大学で土木工学を学び、コンビナートの職長などを経て、30歳の時共産党に入党した。だが、エリツィンは共産主義には何の関心も持たなかった。入党の際の面接で、資本論の知識を試された彼は、でたらめなことを言って試験官をだまそうとしたが、エリツィン同様無知な試験官は、まんまとエリツィンに乗せられて彼の入党を許可した。

エリツィンが政治の表舞台に登場するのは1985年である。この年共産党書記長になったゴルバチェフは地方から有能な人材を集めたが、エリツィンにも白羽の矢がたって、モスクワ市の共産党書記に抜擢されたのだった。

活動の舞台を得たエリツィンが最初にやったことは、町へ出て市民生活の実情を把握することだった。エリツィンはトロリーバスが時刻表通りに動かず、スーパーマーケットの棚が空なのに、倉庫には在庫品が山積みにされているのを見て、責任者たちを告発した。

エリツィンはまた、共産党アパラーチキの中に広がる腐敗を暴き立てて、賄賂の横行を告発した。こうしたことは当然、共産党体制との衝突を呼ぶ。1987年にイーゴリ・リガチェフを告発したことが直接の引き金となり、ゴルバチョフにも見捨てられ、ついに要職から放逐された。

だが、エリツィンはすぐに政治的な復活を果たした。ゴルバチェフの用意した国民議会の選挙を勝ち抜いて、議会に帰り咲いたのである。

議会を足場に民主派との共同戦線を強めたエリツィンは、1990年のロシア共和国議会の選挙に勝ち抜き、その議長に選出される。

更に1991年には、直接選挙によってロシア共和国の大統領に就任した。ロシアの長い歴史の中で、民意によって直接に選ばれた最初の統治者となったのである。

1991年の8月には、エリツインを国民的英雄に祭り上げる、劇的な事件が起きる。ゴルバチョフに反発するグループが、ゴルバチョフがクリミアに出かけて不在の機会を利用して、クーデターを起こしたのだ。これに対して、エリツィンは身を賭して戦い、戦車の上から民主主義の擁護を訴えた。その姿は、テレビを通じて世界中に伝えられ、民主主義の守護神としてのエリツィンの存在を強烈にアピールしたのである。

この事件を契機に共産党組織は急速に求心力を失い、ゴルバチョフ自身によって、党中央組織が解体されるまでに追いつめられた。

ロシア共和国大統領として政治の実権を握ったエリツィンは、政治的にはソビエト連邦の緩やかな解体と民主化、経済的には市場化を進めた。だがガイダルを首相に据えて進めた自由化政策は惨憺たる結果を招き、ロシア経済は泥沼の状態に陥る。生活を脅かされた市民の中には、共産党時代を懐かしむ声までわき起こるに至ったのである。

こうした事態を背景に旧勢力は巻き返しを図り、エリツィンの追い落としを企てるに至る。1993年、ことあるごとにエリツィンの政策を邪魔してきたこれら守旧派が、議会に立てこもってエリツィンへの抵抗姿勢を示したとき、エリツィンは断固たる措置に出た。エリツィンは国軍を導入して議会を包囲し、10時間にわたって砲撃を加えたあげく、大勢の死者を出してこの抵抗運動を弾圧した。この事件は1917年以来の内戦といわれた。

エリツィンはこれを、共産主義から民主主義を守るための戦いだと主張したが、歴史上の汚点といわれてもしょうがないほど、血にまみれた陰惨な出来事であった。

1994年の暮には、ロシアからの分離独立を主張したチェチェンに武力介入し、その後の泥沼化を招く。エリツィンの政治的な名声は次第に色あせて行かざるをえなかった。それでも、エリツィンが政治声明を保ち続けていられたのは、共産主義への逆戻りを、多くの国民が望んでいなかったからである。エリツィンは飲んだくれで、どうしようもない男だが、共産党よりはましだというわけである。

1996年の大統領選挙は、エリツィンにとっては正念場となった。旧共産党勢力のチャンピオン・ジュガーノフがエリツィンに迫る勢いを見せたのである。だがエリツィンは、新興の資本家たちやメディアの一致団結した応援と、彼一流のパフォーマンスによって、この危機を乗り切った。この選挙は、エリツィンのもとで民主化を進めるか、共産党時代に舞い戻るかの、歴史的な選択とも呼ばれた。

選挙期間中彼は心臓発作に見舞われ、一時は重篤な状態に陥った。エリツィンの強運は、この身体上の危機をも乗り切ったのであった。

二期目以降のエリツィンには、殆どいいところがない。1998年にはロシア経済は一段と悪化し、ルーブルは紙くず同然になった。また、チェチェンの武装勢力が、各地で暴動を起こし、治安は極端に悪化した。

エリツィンの個人的な魅力にも、陰がさして来た。彼は欲にとらわれぬ清廉な男として、国民の信頼を集めていたのだが、身辺にダーティーな噂が絶えないようになった。スイスのゼネコンに発注する見返りに巨額の賄賂を受け取ったとする疑惑などはその典型である。旧共産党勢力は、こうしたエリツィンの不正を理由に彼を議会で弾劾した。

健康も思わしくなかった。またアルコールによる影響も、誰の目にも隠せないほど、ひどいものになった。彼はどこにいても、常に酔っぱらった状態で、きちんと立っているのもままならない男だと、思われるようになった。

1999年、エリツィンは突然引退の意向を明らかにし、プーチンを後継者に指名した。エリツィンはプーチンを抱き込むことで、自らの不正がKGBによって暴かれずにすむ保証を求めたのだともいわれた。この選択がエリツィン以後のロシアにどのようなインパクトをもたらすようになるのか、最近になって徐々に明らかになりつつある。

だがここで、エリツィンのために、彼が引退するにあたってロシア国民にあてて残した言葉の一節を紹介しておこう。

―私は国民のあなた方すべてに許しを乞わなければならない。我々が共有した夢の多くを実現できなかったことに対して。

―たやすくできると思っていたことが、実は簡単には実現できなかった。我々はそれらの夢を一瞬にして実現し、暗くて、どうしようもなく、救いがたい全体主義を清算し、明るく、豊かな人間的社会を実現しようとした。私自身、これらの夢を一瞬にして実現させることができると思い上がっていた。私は余りにもナイーブすぎた。

以上がエリツィンの公人としてのプロフィールである。エリツィンの行ったことについては、今後多くの歴史家たちが研究を深めていくことだろう。

(参考)
Boris Yeltsin, Russia’s First Post-Soviet Leader, Is Dead By Marilyn Berger : New York Times
Rough-Hewn Father of Russian Democracy By Lee Hockstader : Washington Post


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