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ヴィヨンの悪魔狂言:パンタグリュエル物語


フランソア・ラブレーの大年代記第四之書「パンタグリュエルの物語」は、フランソア・ヴィヨンの愉快ないたずらについて紹介している。(以下テキストは、渡辺一夫訳、岩波文庫版)

「フランソア・ヴィヨン先生は、その晩年に、ポアトゥーの国はサン・メクサンに引退され、その地の修道院長で、心優しき一人のお方の格別のおはからいを受けられた。そこで、町民たちを慰めてやろうと、ポアトゥー国の方言で綴り、お国振りの所作による受難劇を上演してみようと思い立たれた。」

ヴィヨンが晩年ポアトゥーで隠居生活を送ったかどうかは、この際あまり意味がない。その破天荒な生き方が、これから紹介するようないたずらに相応しい、トリックスター的、あるいはアルレッキーノ的なイメージを呼び寄せていたのである。

ヴィヨンが計画する受難劇とは、悪魔狂言と呼ばれるものである。悪魔たちの悪逆非道な暴力によって、聖なる人々が散々に痛めつけられるさまを描くものだ。この狂言は、舞台において演じられることもあったが、広場の中で青空の下で演じられるときには、カーニバル的な、自由で笑いに満ちた、すべての民衆を巻き込むドンちゃん騒ぎとなった。

このドンちゃん騒ぎの中にあっては、参加者たちには、普通は許容されないような自由な振舞が許された。無遠慮に殴ること、けしからぬ仕草をすること、大酒を浴びたり糞尿をまきちらしたり、ありとあらゆる無作法が多めに見られたのである。それはカーニバルの即興版とでもいったものだったのだろう。

受難劇のお膳立てにとりかかったヴィヨン先生は、役者たちの衣装を貸してくれと、修道院の尾叩坊に頼み込むが、すげなく断られてしまった。尾叩坊は名前の上からは、叩かれる間抜け坊主を連想させるが、ヴィヨン先生にとっては、秩序をたてに祝祭に敵対する許せない存在だったのである。

そこで、「ヴィヨン先生は、大いに憤激しながら、事の仔細を役者一同に報告し、上天の神は、ほどなく、この尾叩坊を懲らしめるために罰を下し給い、恨みをはらされるだろうと付け加えられた。」

ヴィヨン先生は、尾叩坊を懲らしめるために一計を案ずる。尾叩坊がまだ交尾したことのない牝馬にまたがってお布施集めにいき、昼過ぎに広場に戻ってくることを知ったヴィヨン先生は、それに合わせて悪魔狂言を仕組み、尾叩坊をさんざんに打ちのめしてやろうと思うのである。狂言芝居にあっては、どんな無作法も暴力も許される。そこを逆手にとって、尾叩坊を打ちのめすのだ。

「先生の考案になる悪魔は、どれもこれも、狼や子牛や牡羊の皮ですっぽり体を包み、羊の頭やら牛の角やら台所用の大肉刺しなどを、ところどころにぶらさげ、幅広の革帯を締めていたが、それには、牝牛につける大きな鐘や驢馬につける鈴やらが釣られていたので、恐ろしい物音を立てた。」

やってきた尾叩坊はわけもわからぬまま、悪魔狂言に巻き込まれて、敵役を演じさせられる羽目となり、演技を装ったヴィヨン先生たちによって、散々に打ちのめされる。それは劇のハイライトであり、悪魔の打擲と呼ばれるものである。

「尾叩坊がそこへやってくると、皆は街道へ躍り出て、大きな喚き声を立てながら、四方八方から、奴にもその牝馬にも花火を浴びせかけ、釣り下げてきた鐘をがんがん鳴らし、悪魔のように唸りたてたのだな。“わう、わう、わう、わう、ぶるうるう、るうる、るうる、わう、わう、わう、わう、わう、わう。やいエチエンヌ坊、これでも悪魔と見えないか!とな。」

「びっくり仰天した牝馬は、とことこ、ぽこぽこ、ぽかぽか、がちゃがちゃ、がたがた、どかどか、ぎゃんぎゃんと走り出したので、尾叩坊は、一生懸命になって鞍の骨にしがみついていたものの、下へ振り落とされてしまった。ところが、鐙紐が革でできていたので、それが右側で、坊主の草鞋靴にぎりぎりと絡みつき、抜き出そうにも抜き出せぬ羽目とあいなった。こういう有様で、尻でも拭くようにして引きずられていったが、牝馬は、いよいよもって烈しく坊主を跳ね飛ばし、周章狼狽しながら、生垣や草藪や掘割を越えて右往左往したのじゃ。その結果、坊主の頭は滅茶滅茶に割られて、脳味噌は祝福十字架の側へぽとんと落ちたし、腕はばらばらになって、一つはこっち、もう一つはあっちへすっ飛び、脚もご同様となったな。それから、腹綿も、長いぼろ切れ肉みたいになってしまったし、牝馬が修道院に着いた時には、坊主の形見の右足と、ぎりぎり巻きにされた草鞋靴としか、その背には乗っていなかった。」

このように、ヴィヨン先生は、カーニバル的な伝統を利用して、苦虫坊主をファルスの中に引きずり込み、演技の擬制を通して、坊主を散々な目にあわせる。
ファルスに出てくる悪魔たちは、動物の皮に包まり、台所用具を携えたりして、生々しい肉の印象に満ちている。彼らは坊主を打ちのめすことで死をもたらすとともに、そこから肉の再生を暗示させもする。両面価値的なイメージを付与されているのである。この悪魔は後に、ヨーロッパの大衆演劇の大スター・アルレッキーノへと発展していく。

ラブレーは、こうしたカーニバル的、祝祭的な雰囲気を、中世・ルネッサンスの時期を通じてヨーロッパの民衆社会を彩った、うねりのような現象と見ているのだが、それをヴィヨンという歴史的な人物に仮託して、生き生きと描きだしてみせた。伝説上の人物と化したヴィヨンには、ラブレーの想像力を刺激する、悪魔的かつ狂言的な雰囲気があったのだろう。

現実のヴィヨンの姿といえば、刃傷沙汰で人を殺したこともあったようだが、ここに描かれたようなイメージとは逆に、むしろ常に迫害される立場にあったらしい。彼はそれに対して、せいぜい屁を引っかけるくらいしかできなかったのであるが、その人生には常に祝祭的な雰囲気が漂ってもいたようだ。


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