2007年7月アーカイブ

漢の武帝は漢王朝五代目の君主として、漢を全盛時代に導いた。16歳で即位し、その在位期間は55年の長きに及んだ。北では匈奴が力を増し、外交上の緊張もあったが、この時代の漢はあらゆる意味で繁栄を誇ったといえる。

中国4000年の歴史は数々の英雄たちの群像で彩られている。秦末に登場した項羽と劉邦は、そうした群像たちの中でもひときわ大きな光芒を放つ存在である。

生きている化石として知られているシーラカンスが、今年の5月にインドネシアのスラウェシ島で釣り上げられた。インドネシアでシーラカンスが発見されたのは、1998年以降実に9年ぶりのことである。

万葉集巻十五はその前半部に、遣新羅使の一連の歌を合わせて145種も載せている。その数からして異例の扱いといえる。

むずむず脚症候群なるへんてこな名称の病気があって、結構多くの人が悩んでいるようだ。これは脚にむずむずするような不快感を覚え、それを和らげようとして脚を動かさずにはいられなくなる症状だ。そんなところから、英語では Restless legs syndrome と命名されている。

最近号の Newsweek に、死から生還、つまり生き返った男の話が載っていた。この記事は併せて、人間が死ぬプロセスについても考察しており、興味深く読んだ。 The Science of Death, Reviving the Dead By Jerry Adler

今でも大学の哲学史の授業では、そもそも哲学なるものはギリシャの賢人タレスに始まると教えているのではないだろうか。

デジデリウス・エラスムス Desiderius Erasmus が「痴愚神礼賛」を書いたのは16世紀初頭の1509年、トーマス・モアの客分としてロンドンに滞在していたときであった。痴愚神のラテン語名Moriaeは、モアのラテン語表記 Morus に通じ、エラスムスはこの著作をトーマス・モアに捧げた。

1871年9月にポール・ヴェルレーヌを訪ねてパリにやってきたランボーは、ヴェルレーヌの妻マチルドに嫌われ、あちこちと知人たちの家に居候しながら、その日暮しを始めた。これ以後、1873年7月に訣別するまで、ランボーはヴェルレーヌと深い関係を続けるのである。

「酔いどれ船」は、ランボーの初期の創作活動を締めくくる作品である。ランボーは1871年9月中旬、ヴェルレーヌとはじめて会うのだが、そのときに挨拶代わりにこの作品を携えていっているから、書き上げたのはそれ以前のことだろう。

史記列伝は冒頭に伯夷伝を置いている。周の武王が武力を以て殷を討とうとしたのを、伯夷・叔斉は非暴力の立場から諌めた。しかしその声が聞き入れられなかったので、後に周の時代が到来すると、伯夷・叔斉はその世にあることを潔しとせず、首陽山に隠れ蕨を摘んで命をつないだ。

「古詩源」は清代の学者沈徳潜の著した中国古代の詩歌拾遺集である。帝王の時代から隋の時代に至る古詩976篇を集めている。古詩を集めたものとしては、すでに古くから「文選」や「玉台新詠」などがあり、そのほかにも楽府歌辞を集めたものなどがあったが、沈徳潜は自分なりの考えに基づいてコンパクトな詩集を作ったのである。

草壁皇子が亡くなったとき、柿本人麻呂が荘厳な挽歌を作って皇太后(持統天皇)に奉ったことについては先に述べた。人麻呂はその後、持統天皇の宮廷歌人として、折節の行事のために儀礼的な歌を作るようになる。

高市黒人は柿本人麻呂のほぼ同時代人である。その生涯については、柿本人麻呂以上に詳しくはわかっていない。同族に高市県主がおり、壬申の乱に際して、飛鳥の地で神々の託宣を下したというから、神官の出であったと考えられる。県主はその功績により、天武から連の姓を授けられた。連は朝臣より下位の位であるから、高市連黒人は人麻呂より一層身分の低い官人だったと思われる。

先日は、ワイルドキャットからハウスキャットへの猫の進化について考察した。結論は、今日地球上に生きるすべての猫は、ほぼ1万年前の中東にいたわずか5匹のワイルドキャットから生まれてきたのだということだった。そこで犬のほうはどうなのだろうと、もう一つの人間の友に関心が向くのは自然の勢いだろう。

エラスムス Desiderius Erasmus (1467-1536) は、北欧ルネッサンスを代表するヒューマニスト(人文主義者)として、カトリック教会の堕落を告発し、ルターら宗教改革運動とも交流のあった人物として知られている。その著作「痴愚神礼賛」は、腐敗停滞した当時の社会を弾劾したものとして、ことのほかエラスムスの名を高めた作品である。

ゲーテは「イタリア紀行」の中で、1788年に目撃したローマの謝肉祭の様子を描いている。(以下テキストは、相良守峯訳、岩波文庫版)

ランボーは2度目の家出の際、ドゥーエーのジャンドル家の世話になっている。ジャンドルはイザンバールの親戚であったらしい。ジャンドル家には二人の娘がいて、ランボーは彼女たちの世話を受けた。「虱を探す女たち」は、そんなジャンドル家での思い出を歌ったものである。

ランボーの詩「盗まれた心」は、「酔いどれ船」とともに、彼の初期の詩を代表するものであるが、それが何を歌ったのかについては、さまざまな議論があった。最もショッキングなのは、これが強姦された経験を歌ったものだとする説だ。

閑情賦は、陶淵明の数ある作品の中でも、古来議論の多かったものだ。陶淵明といえば反俗を旨とし、田園に生きることを謳歌した詩人というイメージが確立されていたから、人間の情念を怪しく描いたエロティシズム溢れるこの作品は、淵明にまとわるイメージから著しく外れていると受け取られてきたのである。

桃花源記には詩一首が添えられている。あるいは、この詩に対する序が桃花源記ということなのかもしれない。

女子の割礼

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男子に対する割礼は、ユダヤ人社会やイスラム教圏において、長い文化的背景と歴史を有している。それは宗教的な理由から、一種の通過儀礼としてなされてきたのだと思われる。恐らくユダヤ教が始原で、そこからアラブ社会に伝わったのではないか。

志貴皇子は天智天皇の皇子であったために、壬申の乱以後は皇位継承から外れた傍系にあった。それでも、温和だったらしい人柄が天武、持統両天皇に評価されたのか、宮廷においては、異母兄弟の川嶋皇子とともに厚遇されたようである。

日本の古代王朝における皇位の継承には、近代に確立されたような直系長〔男〕子相続のような明確なルールがあったわけではなく、兄弟間の継承や時には女帝の誕生といったことが頻繁に起きた。

パリにホロコースト・ミュージアムがオープンしたのは2005年1月、第二次世界大戦中ナチスによってフランス国内からアウシュヴィッツに送られた11000人のユダヤ人の記録を後世に残すことが主な目的だった。その場所で今、ウクライナにおけるホロコーストを紹介する展示が行われている。

先日NHKテレビが奥羽山地の一角に広がる和賀山塊の自然を紹介していた。日本一といわれるブナの巨樹や、ミズナラやクリの巨木など、日本の自然を彩る豊かな山林の映像を目にして、筆者は数年前に訪れた白神山地のブナの森を思い出し、懐かしい気分になった。

バートランド・ラッセルのいうとおり、ルネッサンスは時代の思想を集約するような偉大な理論的哲学者は一人も生んでいないが、時代全体としては、人間の世界観を180度転換するような巨大なうねりに満ちた時代であり、トータルとしてみて、新しい思想の体系がはぐくまれた時代であった。

パリ・コミューンの反乱は1871年の3月18日に始まり、5月28日にティエール政権の仮借ない弾圧の下に崩壊した。2ヶ月間も続いた市民による反乱は、社会主義運動の初めての本格的動きとして、世界史に甚大な影響を及ぼす。

「夕べの祈祷」はランボーのスカトロジーが現れる最初の作品である。書いたのは、おそらく1870年の暮近くだと思われる。その頃ランボーは、シャルルヴィルに連れ戻されていたが、日常の生活に退屈しきり、周りの空気に我慢ならなかった。

陶淵明の作品「桃花源記」は中国の古代の詩人が描いたユートピア物語として、千数百年の長きにわたって人口に膾炙してきた。日本人にとっても親しみ深い作品である。そこに描かれた「桃源郷」は、理想の安楽世界を意味する東洋流の表現として、いまや世界的な規模で定着しているといえる。

王弘の部下に龐參軍という者があった。陶淵明は王弘を通じてこの人物とも親しくなったようだが、それは龐參軍が高潔の気風を持っていたからであろう。この人物が詩をたしなんだらしいことは、陶淵明の別の文から伺われる。

オーストラリアのテレビでは今、交通事故防止キャンペーンに流されているユニークな映像が話題を呼んでいる。スピードを上げて得意気な青年たちに向かって、女性たちが小指を突き出して揺らす仕草をみせ、「ペニスが小さいからって、スピードを出すもんじゃないわ」といっているシーンである。

天武天皇(大海人皇子)は壬申の内乱を勝ち抜き、自力で王位を手中にした。持統女帝は天智天皇の娘であったが、叔父の大海人に嫁いでともに壬申の乱を戦い、夫の即位後は皇后としてともに政に当たった。しかして天武天皇が亡くなって後は、孫の文武天皇が成長するまでのつなぎ役として即位した。この夫婦が統治した時期は、日本の古代でも最も安定した時代だったといえる。

天智天皇は、古代の豪族蘇我氏を倒して大化改新をなしとげ、即位して後は強大な専制君主として、権力を一身に集中した。こんなところから、とかく政治的側面のみが強調されがちであるが、万葉集に納められている歌から伺われるように、人間的な側面をも併せ持っていた。

体外受精の技術は今や確固としたものとなり、不妊に悩む人々に光明を投げかけている。この技術を簡単に説明すると、卵巣から成熟した卵子をとりだし、それを試験管の中で精子と結合させた後に、子宮に戻すというものである。

現在地球上には6億匹の飼い猫 House Cat が暮らしているそうだ。(無論野良猫も数に含む)従来これらの猫たちの祖先はエジプトに発祥したのだろうと思われていた。しかし3年前にキプロス島で発見された猫の遺骸をめぐり、それがエジプト文明よりはるか以前に、トルコ経由でキプロス島に渡ってきたことが実証されて、この説は覆った。

フランソア・ラブレーにおいて、セックスにかかわる事柄は、何よりも生殖の豊穣さと結びついていた。男女が性的に交わるということは、新しい生を生み出すための行為なのであり、世界を絶えず更新させていくための、大いなる営みとみなされていた。

「戸棚」はランボーの詩の中でも、写実的な描写といい、古いものへのノスタルジックな感傷といい、変わった位置を占めている。ランボーの詩には他に、こうした雰囲気の作品は見当たらない。

1870年10月7日、ランボーは二度目の家出をする。恐らく金は殆ど持っていなかったのだろう。徒歩でベルギーに向かい、途中知り合いの家に転がり込んで一夜の宿を借りたりしながら、シャールロアまで歩き続けた。

義煕十四年(418)陶淵明が54歳の年、王弘が江州刺史として赴任してきた。王弘の王氏は山東朗邪の出身であり、当時の晋にあっては最高の家柄を誇っていた。その王弘がすでに隠士として名をあげつつあった陶淵明を尊重し、何かと淵明の世話を焼いた。陶淵明は著作佐朗に推挙されて断っているが、これも王弘の推薦によったものだといわれている。

義煕十二年(416)、劉裕は北伐を行い、翌年には長安に攻め上って後秦を滅ぼした。この知らせは、久しく中原の地を異民族に奪われていた漢人たちをいたく感激させた。陶淵明もその一人であった。

万葉集巻一は、冒頭に雄略天皇に仮託された伝承歌を据えた後、二首目には時代を超えて舒明天皇の歌を置いている。しかして、舒明天皇の后斉明〔皇極〕天皇以後、各天皇の時代区分に従って、それぞれの時代を代表する歌を並べている。



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