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ラブレーのセクソロジー:生殖の豊穣


フランソア・ラブレーにおいて、セックスにかかわる事柄は、何よりも生殖の豊穣さと結びついていた。男女が性的に交わるということは、新しい生を生み出すための行為なのであり、世界を絶えず更新させていくための、大いなる営みとみなされていた。

人が生まれるということは、ルネッサンス人にとっては、特別な関心の的であった。世界そのものが、単調な直線状を起伏なく歩むのではなく、生と死がこもごも交差するダイナミックな構造を持つものだと思われていた。世界は絶えず死に、かつ生まれ変わる。カーニバルはそのような死と再生を確認するための祝祭であった。

人間もまた、同じように絶えず死に、かつ再生している。その死と再生を繰り返させる原動力となっているのが、生殖行為であり、新しい生を孕む女の腹であり、その腹を孕ませる男のファロス(ペニスではない)であった。ルネッサンス人にとってのセックスとその表現としてのセクソロジーはだから、豊穣の原理であったのだ。

ラブレーのセクソロジーには、近代人が思い浮かべるような、ポルノグラフィックなイメージはいささかもない。そこには新しい生命の誕生を予感させる喜びがあり、常に明るい笑いがあった。

ラブレーのセクソロジーは、カーニバル的な笑いのセクソロジーである。

第一之書「ガルガンチュア物語」はガルガメルがガルガンチュアを出産する場面から始まる。ガルガメルは分娩に先立ち、饗宴の席で牛の腸をたらふく食い、そのために肛門が抜け出るほど満腹するのだが、この飽食の延長であるかのように、ガルガンチュアを生み出す。出産は部屋の一隅でひっそりとなされるのではなく、大勢の人びとの前で、まるでお祭騒ぎのようになされる。ラブレーは出産を饗宴と同じく、祝祭的な出来事として描いているのである。

この場面を引用してみよう。(以下渡辺一夫訳、岩波文庫版より)

「ガルガメルが子どもを産んだ時のこと、またその有様は下に記すとおりであるが、もし諸君がこれを嘘いつわりと思われるならば、いっそのこと肛門が抜け出るがよい。

「二月三日の午後のこと、牛腸料理をあまり喰い過ぎたために、ガルガメルは肛門が抜け出てしまったのである。そもそも牛腸料理と申すは、肥満牛の脂ぎった臓物料理のこと、肥満牛と申すは、秣桶なり二度刈牧場なりで丸々と太った牛のこと。二度刈牧場と申すは、一年に二度も草の生える牧場のことだ。・・・(こうした臓物料理は糞の袋を食うことだからと、グラングージェはガルガメルを戒めるのだが)この戒めもいたずらに、ガルガメルは、十六枡二樽と六杯も平らげてしまった。おお、消化滓がたんまりと、ガルガメルのお腹にたまってしまったことになる。」

食後グラングージェと子作りについて話していたガルガメルは急に腹が痛くなる。

「それからほどなく、ガルガメルは、うんうん言ったり、ひいひい言ったり、きゃあきゃあ言ったりし始めた。すると忽ち、四方八方から産婆たちが、わんさわんさと集まってきて、下の方を探ってみたところが、随分と悪臭を帯びた皮切れのようなものが出ていたので、てっきり赤子だと思ってしまった。しかしこれは、上にお話したように臓物料理をあまり食いすぎたので、(諸君が続に“糞袋”と呼んでおられる)直腸がゆるんだ結果、脱肛を起こしていたためであった。」

そこで名女医の噂高い梅干婆がでてきて、収斂剤を施したところが、事態はいよいよややこしくなるばかり。

「こうした故障のために、子宮の髀臼が上のほうに口を開けてしまい、そこから胎児が飛び出し、上昇静脈幹に入り込み、横隔膜を通って肩の辺までよじ登り、(そこで、この血管は二つに分かれているが)左手へ道を辿って、左の耳から外へ出た。

「子どもは生まれるやいなや、世間並みの赤ん坊のように、“おぎゃあ、おぎゃあ”とは泣かずに、大音声を張り上げて“のみたーい、のみたーい、のみたーい”と叫びだし、あらゆる人々に一杯飲めといわんばかりであったから、ビュースやヴィヴァレー地方全土一帯からも、この声は聞き取れたほどだった。」

女の腹が命を育む豊穣の海だとすれば、その入口たる玉門は、命を送り出す道であり、突き出たファロスを飲み込む穴である。それはまた、大きく口を開けた門として、中世・ルネッサンスの民衆にとって、地獄あるいは煉獄への入口でもあった。

第三之書において、パンズウの巫女がパンタグリュエル一行に対して、裾をまくり上げて尻を見せた時、パニュルジュが「あれが有名な巫女の洞穴だぜ」と叫ぶ場面が出てくる。女の玉門はあらゆるものを飲み込む巨大な穴であると同時に、地獄へいたる入口としてもイメージされていたのである。

一方ファロスといえば、それは一義的には、突き出たものとして穴を塞ぐものである。この意味において、へこんだものに対してはプラスのイメージを持つのであるが、世界の豊饒という観点からは、女の腹を満ちさせ、新たな生命を吹き込むための言い訳のような存在である。それは、基本的には、畑の豊穣を実現するためにだけに存在意義を持つ、種のようなものなのだ。

そんなファロスの半ばいじらしく、また愉快きわまるイメージを、第三の書が次のように描いている。

パニュルジュは女と結婚したくて仕方がないのに何故か戸惑っている。女房が間男をして、自分が角の生えた間抜け亭主になるのを恐れているからだ。この時代、女は天真爛漫で、亭主が無能となれば、間男を作って子作りに励んでいたのであろう。パニュルジュにはそれが耐えがたかった。だが、まだ結婚もしないうちから、間男になることを恐れるパニュルジュを、仲間たちははやしたてて馬鹿にする。そうしてこういって、パニュルジュをさとすのだ。

「なあおい、可愛いふぐり坊主め、半欠けふぐり、名うてふぐり、足太ふぐり、授かりものふぐり、鉛入りふぐり、乳垂れふぐり、毛もくじゃらふぐり、まいはだふぐり、色筋ふぐり、仰向けふぐり、漆喰ふぐり、唐草ふぐり、草模様ふぐり、難攻ふぐり、皮剥ぎ兎ふぐり・・・肉詰めふぐり、膨らみふぐり、てかてかふぐり、つるつるふぐり、がらぴしゃふぐり、ぴんぴんふぐり・・・」こんな調子で、臆病なパニュルジュのふぐりを揶揄する言葉が延々と並べ立てられたのち、パニュルジュは感じ入って、次のような愉快な言葉を吐き出すのである。

「されば俺は、こう考えるよ。今後我が肉雑炊全領土にわたり、誰か悪人を裁きにかけて処刑しようとする場合には、一両日前に、荷鞍をはずした驢馬のように、はいしいどうどうとやらせて遣わし、子種壺をからにしてやり、いかついγの字など現われ出る余地のないようにしたいものだね。かような貴重なものは、盲滅法になくすわけにはゆかんな。ひょっとすると、別な人間が一人生まれるかもしれんのだからな。そうすれば、一人減って一人増えるというわけで、御当人も心残りなく往生できるというもんだ。」

かように、ラブレーのセクソロジーは、宇宙の摂理を抱え込むような、雄大かつ壮絶な、しかも人をして頬を緩めしむ、人間的な色合いに、満ち満ちていたのである。


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