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ミクロコスモスとしての人間:ラブレーのコスモロジー


バートランド・ラッセルのいうとおり、ルネッサンスは時代の思想を集約するような偉大な理論的哲学者は一人も生んでいないが、時代全体としては、人間の世界観を180度転換するような巨大なうねりに満ちた時代であり、トータルとしてみて、新しい思想の体系がはぐくまれた時代であった。

ミハイル・バフチーンはそれを、中世の階層秩序的世界観から、人間中心の世界観への転換ととらえている。そして、その文脈の中でフランソア・ラブレーの作品を読み解いている。ラブレーは世界を人間中心の視点からとらえなおし、人間をひとつのミクロコスモスに見立てたと、バフチーンは分析するのである。

中世の世界観は、スコラ哲学に集約されている通り、静的で硬直した世界のイメージからなっていた。それはアリストテレスの説をもとに構築されたものである。世界は土、水、風、火の四代要素からなり、それらの要素は画然とした上下の階層秩序を形成していた。最下層には土(地下)があり、最上層には火(天空)があった。この世は、水あるいは風として、上層と下層の中間にあった。そして運動の方向は、下層から上層への上昇、上層から下層への転落といった垂直的なイメージのもとにとらえられていた。きわめて階層秩序的な世界観であったわけである。

バフチーンは、ルネッサンスの時代に至ってこうした階層的な世界像が崩壊し、上下の関係にかわって、すべてのものが水平軸上での相対的な関係に成り代わったと見る。水平線上での動きであるから、上下の関係より、前と後の関係が問題となり、それにともなって生成と変化とのダイナミズムが前面に出てくる。世界は階層秩序の中での静的なあり方から、絶えず生成変化する動的なあり方に向かう。

絶対的世界観から相対的世界観への転化ともいえるこのあたらしい世界観にあって、人間は多かれ少なかれ宇宙を映し出すひとつのミクロコスモスとしてとらえなおされるようになった。つまり絶対的な軸をもたず、すべてのものが相対的にかかわりあう関係の網の目にあって、その構成要素の一つ一つは宇宙の結節点ともいうべきものとなるのであるが、結節点の中でも人間は特別なものであるから、一人一人の人間が世界あるいは宇宙を映し出すものとなる。ミクロコスモスとはそういった意味を内蔵しているのである。

この新しい人間はしたがって、中世においてイメージされていたような、霊性優位のものではなく、あくまでも肉体そのものとしての人間であった。バフチーンはラブレーの徹底した唯物性に注目するのだが、それの源泉としてポンポナッツィらのパドヴァの説を上げている。ポンポナッツィは魂が生命と同一であると主張し、肉体の外では魂はまったく空虚だとした。しかして肉体はミクロコスモスであり、宇宙にあってバラバラなものが肉体の中で一つになるのだといった。

ラブレーのグロテスクな肉体間はこのようなミクロコスモス的肉体観から発露していると、バフチーンはみる。ラブレーにとって、人間の肉体はすべての物質の鍵である。「宇宙を構成している物質は、人間の肉体において、その真の本性を開示し、最高の可能性を明らかにする。人間の肉体において、物質は創造的、建設的となり、全宇宙に打ち勝ち、宇宙の全物質を組織する使命を得ることになる。人間において物質は歴史的性格を獲得する。」(フランソア・ラブレーの作品と中世ルネッサンスの民衆文化、川端香男里訳)

バフチーンは、ラブレーが人間に付与したミクロクスモス的性格と、その結果としての神的な属性付与をよく現している部分として、第三之書51章をあげている。(渡辺一夫訳、岩波文庫版)

「このありがたきパンタグリュエリヨン草を用いることによって、北極の民族たちは南極の民族たちの姿を隈なく眺められることになり、大西洋を渡り、二条の回帰線を通過し、熱帯圏下で踊りまわり、獣帯の一切を計量し、赤道下で遊び戯れて、眼路の彼方に南北両極をば望むというようなことになったのを見て、在天の諸精霊も、陸海岸の神々も悉く恐怖するに至った。オリュンポスの神々も同じく驚愕のあまり、こう仰せ出された。

「・・・彼奴は程なく結婚いたし、その妻女に多くの子どもを生ませることであろう。我らはこの宿運に逆らうことは不可能じゃ。それと申すのも、必然の娘、宿命の姉妹どもの手を経て紡錘竿にかけられてしまったことだからだ。奴の子どもたちによって、この度と同じような力を有する別な植物が発見されることになるかもしれぬが、人間どもはこの植物を用いて、雹の源、雨水の井堰、雷電の工房を訪い、月世界へも侵入できるであろうし、星象国に入って、或る者は黄金鷲荘に、他の者は羊楼に、また他の者は冠楼に、また他の者は竪琴荘に、また他の者は銀獅子屋に宿をとるようにもなり、我々と食卓をともにし、そして、それは奴らが神格を得る唯一の方法だが、我が女神たちを妻とするようなこともいたしかねまいぞ。」

ここにラブレーが描いた人間像は、ただにミクロコスモスたるにとどまらない。人間は世界の覇者として、宇宙をも我が手にせんばかりである。しかも、神々をも驚愕させるそのエネルギーには、中世的な垂直的世界像とそのなかでの矮小な存在としての人間のイメージは全くない。

いまや肉体に宇宙の物質を集約した人間が、新しい世界の主人公として、世界史を前へ前へと突き動かしていく。ここに世界史の中でも類希なヒューマンなコスモロジーが成立するのである。


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