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エラスムスの「痴愚神礼賛」:笑いの文学


デジデリウス・エラスムス Desiderius Erasmus が「痴愚神礼賛」を書いたのは16世紀初頭の1509年、トーマス・モアの客分としてロンドンに滞在していたときであった。痴愚神のラテン語名Moriaeは、モアのラテン語表記 Morus に通じ、エラスムスはこの著作をトーマス・モアに捧げた。

この時代のヨーロッパはルネッサンスの成熟期にあたり、自由な雰囲気が漂っていた。イギリスもまた例外ではなく、モアはこの雰囲気のなかで「ユートピア」を書いている。「痴愚神礼賛」はこうした社会の雰囲気が生み出した、すぐれて時代的な作品なのである。

すでにルターによる宗教改革運動が芽生え始め、それはやがて1517年のルターによるカトリックとの断絶へと結実する。そうした時代の雰囲気の中で、一方では腐敗したカトリックの建て直しが、一部の知識人の中で深刻な問題意識としてとらえられるようになった。エラスムスは生涯カトリック教徒として過ごしたことから伺われるとおり、宗教の腐敗を嘆きながらも、カトリックを否定するのではなく、人間的な宗教として復活させることに意を砕いたとされる。

「痴愚神礼賛」は、このようなエラスムスの問題意識が生み出した、カトリックの内部批判の書であると受け止められてきた。救いと快楽を金銭によってあがなっていた当時のカトリック教会の腐敗したあり方を、痴愚神というカトリックの女神に自賛させることによって、逆説的にあぶりだそうとした、そう解釈されてきたのである。

だが、それにしては、痴愚神の自画自賛があまりにも度を過ごしているので、書かれた当時は空前の反響を呼んだといえ、その後のヨーロッパ人たちにとっては胡散臭いもののように受け取られてきた。全編にあふれる度を外れた猥雑振りが、近代人の理解を超えていたのであろう。

この作品を、ルネッサンスの時代背景の中にとらえなおし、フランソア・ラブレーやシェイクスピアと並んで、偉大な文学の中に位置づけなおしたのは、ミハイル・バフチーンである。

バフチーンは、この作品の中にある誇張や猥雑といった要素を、ヨーロッパの中世・ルネッサンスを通じる滑稽文学の中に位置づけた。その滑稽とは、民衆の生活の中で息づいていた笑いの伝統を、洗練された形で描きあげたものである。今では、まじめ腐った生き方の陰に隠れてすっかり目立たなくなくなってしまったが、こうした滑稽を重んずる伝統は、ヨーロッパ千年の歴史の中に確固たる足場を持っていたものなのである。

エラスムスは、ラブレーとともに、ヨーロッパの確固たる笑いの伝統に訴えかけることによって、痴愚神の自画自賛に象徴されるような、人間の馬鹿げてはいるが、たくましい生き方について、人々に語ったのであろうと、筆者などは考えるのである。

作品はまず、痴愚神に自己紹介させることから始まる。(以下テクストは、渡辺一夫訳)

「世の賢人というご連中は、自画自賛する人間のことを、やれ大阿呆だの、やれ無礼千万などと咎めていますが、問題にはいたしますまい。阿呆フウテンかもしれませんが、それこそこの私のはまり役。痴愚神にとって、みずから自分の栄光を称えるラッパを高々と鳴らし、我と我が身を唄うことくらいぴったりすることが、他にあるでしょうか。私以上に私のありのままの姿を描ける者が他にいるでしょうか。私以上に私を知っているものはだれもおりますまい。」

痴愚神とは、その名のとおり愚者の女神である。しかして女神が語りかけるものはこれまた世の中のあらゆる愚者たちである。その愚者たちのなかには、スコラ哲学者ドゥンス・スコトゥスもいれば、王もおり、老人から女たち、聖職者や学者など、様々な階層のものたちがいる。痴愚の女神は、彼らに向けて、彼らが幸福でいられるのは自分のひそみに倣って愚かでいられるからだと宣言する。

この冒頭の呼びかけから伺われるとおり、この作品は書き物としてのエクリチュールというよりは、語りを主体としたディスクールの文学である。その語りは猥雑なエネルギーに富んでおり、民衆が広場で交わしていた日常の言語を取り上げたものである。

痴愚の女神は、世の中のあらゆることどもが自分のおかげを蒙っていることを自慢する。なかでも人間の生命をもたらす生殖行為は、下品な器官がかかわっているが、それこそ自分の専売特許たる情念が駆り立てるところのものなのだと主張する。

「まず第一に、生命そのものにも増して貴重なものは他にあるでしょうか。ところで、この私のおかげをこうむらずに、いったい誰のおかげで生命は始まりますか、、、皆さんに伺いますが、神々や人間はいったいどこから生まれるのでしょうか。頭からですか? 顔、胸からですか? 手とか耳とか言う、いわゆる上品な器官からでしょうか? いいえ、違いますね。人間を増やしていくのは、笑わずにはその名もいえないような、じつに気違いめいた、実に滑稽な別な器官なのですよ。あらゆる存在が生命を汲みだすのは、ピュタゴラスの例の四元数などはそこのけで、今申した神聖な泉からなのです。」

つづいて繰り広げられる、情念にかんする言説は、この作品の最初のハイライトをなすものである。

「なぜバッコスの神は、いつまでたっても、美しい頭髪をした若々しい青年なのでしょうか? それは、この神様が、酔っ払って前後の見境もなく、酒宴や舞踏や唱歌や遊戯ばかりして暮らしているからですし、パラスの女神とは少しも付き合わないからなのです。バッコスの神は、賢者呼ばわりされるのが嫌いですから、お気に入りの儀式といえば、茶番狂言や冗談だけ、、、いつも愉快にし、いつも若々しく、誰にでも快楽と喜びをもたらしてくれるこの気違いの神様、この阿呆の神様になりたいと思わない人間がいるでしょうか。」

「ガリア学派の人々の申すところによると、賢さとは理知に導かれることで、痴呆とは変転する情念に従っていくことになります。ところが、人間の生活をぴんからきりまで物悲しく陰鬱なものでないようにするために、ユピテル大神は人間たちに、理知よりもはるかに多くの情念を授けてくださいました。」

「何が面白いと申しても、地獄から戻って来たのではないかと思われるような屍同然の婆さんたちが、口を開けば“人生は楽しいわ”などと繰り返すのを拝見することくらい面白いことはありません。こういう婆様連中は、雌犬同様にほかほかしておられまして、ギリシャ人たちがよく申すとおり、“山羊の匂い”がいたします。この婆様たちは、金にあかせてどこかの若いパオンをたらしこみ、休む暇もあらばこそ、こてこてと白粉を塗りたくり、絶えず鏡とご相談、隠し処の毛を抜いたり、ぐにゃりと萎びた乳房を出してみたり、おろおろ声を立てて萎びかけた情火を呼び覚まそうとしてみたり、酒を飲んだり、若い娘に混じって舞踏をしてみたり、恋文を書いたりするのです。だれもかれもが馬鹿にして、こういう婆様こそ大気違いだと申します。ところがご連中のほうでは、そのままでしごくご満足なので、ありとあらゆる快楽を飽きるほど腹に詰め込み、あらゆる喜びを味わい、つまりこの私のおかげで幸福になっているのです。」

このように理知に対比させて情念の効用を長々と説明するのであるが、その本意はどこにあるのか。エラスムスの情念に対する姿勢は両義的に見える。

エラスムスにとって、情念とは人間のもっとも人間らしさをもたらすものである。それは人間の肉体性、物質性の反映であり、宇宙や世界と直接にかかわる部分である。人間は情念にしたがって生きている限り、不幸に陥ることはない、こうした感情をエラスムスは掛け値なしに持っていたに違いない。

しかし、情念はまた、人間のおぞましさと結びついてもいる。それは堕落の源泉ともなる。表面上は理知の名の下に情念を貶めながら、影ではそれに耽ることで、ややこしい事態を演ずることともなる。

エラスムスはだから、偽善を配して情念と正面から向き合うべきだと主張しているかのようだ。それは本当の気違いになることでもたらされる、幸福な状態なのだとエラスムスはいう。

「これは痴愚神たる私の意見ですが、気違いになればなるほど幸福になるものです。ただしそれは、私の領分内のさまざま狂気沙汰にかぎりますよ。もっとも実際は、この領分というのがじつに広いのでしてね。そのわけは、人類のうちで、あらゆる時期を通じて聡明で、一切の狂気を脱却しているような人間は、おそらくたった一人もいないからです。ようするにちょっとした違いということです。つまり、南瓜を女だと思う男は狂人扱いにされますが、それは、そういう思い違いをする人間がごくわずかだからですね。ところが、自分の細君がたくさんの情夫を持っているのに、自分は幸福な思い込みから、我が妻こそペネロペの貞淑さを凌駕すると信じ込み、鼻高々になるような男は、誰からも気違いとは呼ばれません。つまり、こうした精神状態は、多くのご亭主たちに共通のものだからです。」

ここまで来ると、エラスムスの主張は逆説そのもののように聞こえてくる。

情念のうちでも最も強いものは、己自身を愛する情念、つまり自惚れである。自惚れには追従という妹がいると、エラスムスはいう。

「自惚れ心には追従という妹がいまして、非常によく似ています。自惚れ心は自分を撫で擦り、追従は他人を撫で摩るというだけの違いです、、、要するに、どの人間も自分というものが楽しくて大切なものに思われるようにしてもらえるわけですが、これこそ、幸福の要諦というわけです。お互いに撫で合うロバほど親切なものがほかにあるでしょうか。」

ここから先は、社会の様々な階層で繰り広げられている逆さまの情念について、パンチの効いた風刺が繰り広げられる。それは当時の社会の腐敗に対する風刺であると受け取られて、大きな反響を呼びもした。この作品が今日評価されているのも、そうした社会風刺の精神に関してである。

だが、エラスムスの痴愚神礼賛は単なる風刺の書ではない。そこにはルネッサンスの時代が生んだ、開放的な笑いの精神が息づいている。


関連リンク: 読書の余韻

  • フランソア・ラブレー






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