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遣新羅使の歌(万葉集を読む)


万葉集巻十五はその前半部に、遣新羅使の一連の歌を合わせて145種も載せている。その数からして異例の扱いといえる。

この遣新羅使節団は、詞書にあるとおり天平八年〔736〕阿部継麻呂を大使として派遣されたものである。日本の朝廷は、億良の頃より遣唐使は計画的に派遣していたが、新羅とは文物の交流が行われた程度で、遣唐使のような大規模な使節団を派遣するようなことはなかった。だからこの度、どのような政治的目的を以て使節団を派遣したのか、様々な解釈がなされてきた。

日本は663年の白村江の戦いに敗れて以来、朝鮮半島への足がかりを失った。その後、新羅が唐の影響を排して朝鮮半島を統一したが、日本は新羅を正当な国として遇さず、かえって属国扱いするなど、きわめて礼を失した態度をとってきた。

そんな日本に対して新羅のほうでも、懐疑的な態度をとってきたが、天平七年になって何故か使節を遣わしてきた。ところが日本側は会おうともせずに追い返してしまったのである。その理由は、新羅側の文書に自らを「王城国」と称したことにあるというから、大人のとる態度ではなかった。

日本政府はさすがに反省したのかもしれない。そこで相手方の本意を探ろうとして、この使節団を派遣したのだろう、これが大方の通説のようである。

使節団は難波の津から出船し、瀬戸内海を西へと進み、周防から大宰府に入り、更に筑紫から壱岐、対馬を経て新羅へと向かった。

万葉集に収められた一群の歌は、この船旅を記録した歌日記のようなものだ。だがそれは使節団の成員一人ひとりの歌を集めたアンソロジーというようなものではなく、ある特定の人物が、自分の歌を中心にして、時折他の人々の歌を交え、全体として旅の雰囲気が伝わるようにと纏め上げたものである。

歌そのものは決して優れたものではない。また記録が旅の前半に偏っていて、肝心の新羅での様子には全く触れていない。使節団の記録としては片手落ちなのであるが、それは個人的な歌日記という性格からして、多めに見てやるべきであろう。

145首の歌全体の冒頭には、11首の贈答歌が置かれている。

―天平八年丙子夏六月、新羅の国に遣ひ使はさるる時、使人等、各別れを悲しみ贈り答へ、また海路にて情を慟み思ひを陳べてよめる歌、また所につきて誦詠へる古き歌、一百四十五首
  武庫(むこ)の浦の入江の洲鳥羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし(3578)
  大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを(3579)

  君が行く海辺の宿に霧立たば吾(あ)が立ち嘆く息と知りませ(3580)
  秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆きしまさむ(3581)

  大船を荒海(あるみ)に出だしいます君障(つつ)むことなく早帰りませ(3582)
  ま幸(さき)くと妹が斎(いは)はば沖つ波千重に立つとも障りあらめやも(3583)

  別れなばうら悲しけむ吾(あ)が衣下にを着ませ直(ただ)に逢ふまてに(3584)
  我妹子が下にを着よと贈りたる衣の紐を吾(あれ)解かめやも(3585)

  我がゆゑに思ひな痩せそ秋風の吹かむその月逢はむものゆゑ(3586)
  栲衾(たくぶすま)新羅へいます君が目を今日か明日かと斎ひて待たむ(3587)
  はろばろに思ほゆるかも然れども異(け)しき心を吾(あ)が思はなくに(3588)
右の十一首は贈答歌

贈答歌とあるように、これらはみな男女の相聞の歌である。ひととおり読むと、5組の男女が想定されているようにみえる。だが署名もないところからみれば、、異なった男女の歌を寄せ集めたものというより、編者が様々な場面を想定して歌った、フィクションとみれなくもない。

面白いことに、これらの歌は門出を歌ったものにかかわらず、旅や任務の成功については触れておらず、ただただ男女の互いに思いやる気持ちばかりが歌われている。その点、防人の歌の心情と共通するものがある。

船は瀬戸内海を西へと進み、それにしたがってところどころに現れる風景が歌い継がれる。多くは叙景というより、相聞的契機に発した歌である。

面白いのは柿本人麻呂作とされる古歌がはさまれていることだ。おそらく編者が歌の模範として携行していたものを、同僚とともに歌ったのだろう。

壱岐の島では一つのドラマがおきた。団員の一人雪宅滿が疫病にかかって死んだのである。その死を悼んで三人が挽歌を作った。そのうち、編者のものが最も優れているので、ここに引用しておこう。

―壹岐の島に到りて、雪連宅滿(ゆきのむらじやかまろ)が、忽ち鬼病にて死去れる時よめる歌一首、また短歌
  すめろきの 遠の朝廷と から国に 渡る我が背は
  家人の 斎(いは)ひ待たねか ただ身かも 過ちしけむ
  秋さらば 帰りまさむと たらちねの 母に申して
  時も過ぎ 月も経ぬれば 今日か来む 明日かも来むと
  家人は 待ち恋ふらむに 遠の国 いまだも着かず
  大和をも 遠く離(さか)りて 岩が根の 荒き島根に 宿りする君(3688)
反歌二首
  石田野(いはたぬ)に宿りする君家人のいづらと我を問はばいかに言はむ(3689)
  世の中は常かくのみと別れぬる君にやもとな吾(あ)が恋ひゆかむ(3690)
右三首は、姓名がよめる挽歌

「家人の斎ひ待たねか ただ身かも過ちしけむ」とは死者に対する言葉としては酷なところがある。日ごろの行いが悪いからこんな疫病に倒れたのだと聞こえるからである。疫病のまがまがしさが、人々をしてそんな風に思わせたのかもしれない。

そうはいいつつも、死者の帰りを今か今かと待ちわびる家人の思いを語ることによって、旅先で倒れた人の無念さをしみじみと感じさせる部分もある。

対馬では、目指す新羅を目前にして風雨に阻まれ、5日間足止めをくらった。そのときに恐らく新羅を遠めにみながら歌ったであろう歌が載せられている。これも編者のものである。

―對馬島の淺茅の浦に舶泊てし時、順風を得ず、停まりて五箇日を経き。ここに物華を瞻望りて、各慟心を陳べてよめる歌三首
  百船の泊つる對馬の淺茅山しぐれの雨にもみたひにけり(3697)
  天ざかる夷にも月は照れれども妹そ遠くは別れ来にける(3698)
  秋されば置く露霜に堪(あ)へずして都の山は色づきぬらむ(3699)

後の二首は茂吉も万葉秀歌の中にとりれている。天さかる夷の月をみて残してきた妻を思い、あるいは今頃都は紅葉しているであろうと歌う、いづれも旅愁に満ちた作品だといえよう。

一向は竹敷の浦に停泊して宴会を催した。いよいよこれから新羅の地を踏むのだという気概が、人々を奮い立たせたことだろう。面白いことに、この宴会には對馬娘子という遊行女が加わり、ともに歌を詠んでいる。

  もみち葉の散らふ山辺ゆ榜ぐ船のにほひに愛でて出でて来にけり(3704)
  竹敷の玉藻靡かし榜ぎ出なむ君が御舟をいつとか待たむ(3705)
右の二首は、對馬娘子、名は玉槻(たまつき)

二首とも一行の成功を願って詠んだものであろう。遊行女とはいいながら、それなりの教養を持っていたものと思われる。

使節団が新羅においてどのような活動をしたか、記録がないので明らかではない。おそらくは前年日本が新羅の使いに対して行ったと同様の扱いを受けたものと思われる。

使節団は帰国後早速上奏し、新羅の無礼振りを報告した。激怒した朝廷は新羅征伐まで考えたようである。

しかしその年、畿内周辺には疫病が流行し、大勢の人が死んだ。無知麻呂はじめ藤原氏の実力者たちもその犠牲になった。とても対外的に行動を起こす余裕はなかったのである。


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