王昭君は烏孫公主同様、漢の政略結婚によって匈奴の王に嫁がされた薄幸の女性である。運命の過酷さから、中国人の間ではもとより、日本人にとっても同情の対象となってきた。古来能をはじめさまざまな分野でとりあげられてきたことからも、その同情の深さが察せられる。
王昭君は烏孫公主より一世代後、元帝の時代に生きた。父によって皇帝の後宮に捧げだされたが、その寵愛を得ることはなかった。
漢が匈奴との親睦のために、女性を妃として差し出すことになったとき、後宮から誰を送るのが相応しいか選考が行われた。この際、皇室は一番醜い女を選ぶつもりだといううわさが流れた。匈奴に行かされることを恐れた後宮の女性たちはみな、絵師に賄賂を送って自分を美しく描いてもらったが、王昭君のみは家貧しくして賄賂を贈ることができなかったため、醜く描かれてしまった。
いざ、昭君が匈奴に向かって送り出されようというとき、元帝は昭君をはじめてみてその美しさに感嘆し、深く悔いたといわれる。だがもとより後の祭で、昭君は泣く泣く匈奴に嫁いだのである。
これが王昭君にまつわる伝説の前半である。
後半では、老いた匈奴の単于が死に、王昭君は匈奴の風習に従って息子の嫁にさせられる。烏孫公主も同様の目にあってはいたが、何せ漢の風習からすれば人倫に違うこと甚だしいことである。王昭君は深い嘆きとともに恥の感情にもさいなまれたのであった。
そんな王昭君の恥と怨みの情を述べた詩が残されている。「昭君怨歌」と題されるものである。
昭君怨歌
秋木萋萋 秋木 萋萋として
其葉萎黄 其の葉萎黄す
有鳥處山 鳥あり 山におり
集于苞桑 苞桑に集ふ
養育毛羽 毛羽を養育して
形容生光 形容 光を生ず
既得升雲 既に雲に升るを得て
上遊曲房 上のかた曲房に遊ぶ
秋の間葉が茂っていた木も、すっかり色あせて落ちようとしています、山にいる鳥は桑の根本に巣をつくり、羽を養いながら成長して立派な鳥に育ちます、わたくしもそのようにして成長し、雲の上に舞い上がり、天子様の宮殿に仕える身とはなったのでした、(萋萋:草木の茂るさま、曲房:曲線を描いて作られた宮殿)
離宮絶曠 離宮 絶だ曠くして
身體摧藏 身體 摧藏し
志念抑沈 志念 抑沈して
不得頡頏 頡頏するを得ず
雖得委食 委食を得ると雖も
心有徊徨 心に徊徨するあり
我獨伊何 我獨り伊れ何ぞ
來往變常 來往 常を變ず
でも離宮は広すぎて、私は天子様の目にはとまりません、身も思いもふさぎ込んで、自由に飛び回ることができず、養ってはいただきましたが、心はゆれるばかりでした、そんな折にどうしたことでしょう、新たな生き方を選んで匈奴に嫁ぐことを決心してしまったのでした、(頡頏:頡は上にまい飛ぶこと、頏は飛び下ること、)
翩翩之燕 翩翩たる燕
遠集西羌 遠く西羌に集ふ
高山峨峨 高山 峨峨たり
河水泱泱 河水 泱泱たり
父兮母兮 父や 母や
道里悠長 道里 悠長たり
嗚呼哀哉 嗚呼 哀しいかな
憂心惻傷 憂心 惻傷す
翩翩たる燕のように、わたしはこうして西の方羌の地にやってきました、故郷との間には高山が聳えはだかり、河水が横たわっています、お父様、お母様、道の隔たることがあまりに遠いので、私は悲しみのあまりに、胸の破れる思いがいたします。
なお、能は「昭君」と題して、今でも各流派において時折演ぜられている。もともと金春流の古い能であったものを、世阿弥が前後二段の複式夢幻能に仕立て直したとされる。
昭君が嫁ぐときに実家の庭に植えておいた木が枯れるのを見て、両親は娘の死を予感する。そして嘆き悲しむ両親のもとに昭君の亡霊が現れて慰めるという設定になっている。
能の作者はおそらく、この詩から直接のインスピレーションを得て、そのような筋書きを立てたのだとも思われるのである。