まさに死なんとする瞬間、その人のまぶたの裏には、歩んできた人生がフラッシュバックのようによみがえるということだ。といっても、死んでしまった人間がそんなことを証言できるわけもないから、これは幸か不幸か死から生き返った人間たちがいっていることである。
筆者は最近、そんな証言の一つを雑誌 New Yorker の記事で読んで、感銘を覚えた。この記事を書いた男は登山中転落して、1000フィート(約330メートル)下の地面にたたきつけられたのだが、奇跡的に生き返ったのだった。その際にまさに死なんとする瞬間がこの男にも訪れた。男が語るそのときの状況は、上述したことを改めて裏付けていたのである。
男の名はポール・シムズという。急峻で知られるヨセミテの絶壁を登っている最中、地上1000フィートの地点で転落した。体がふわっと浮いたかと思うと、そのまま空中を落下していく。あっという間の出来事だったから、反省する間もない。風の抵抗を感ずることもなく、速やかに空中を落ちていく。330メートルであるから、東京タワーのてっぺんから落ちたと思えばよいだろう。
最初に壁を伝っているアリが目に入った。シムズは不思議な感覚にとらわれた。このアリは何故悠然と絶壁を歩いているのだろうか、そのアリのそばを落ちていく自分はいったい何をしているのだろう。こんなことを思った瞬間、壁から突き出ていた枝にほっぺたを打たれ、続いてアリの代わりに壁をよじ登る人間の姿が目に入った。その登山者はシムズをみると、「なんてこっちゃ」と大声を上げた。
落下地点が全体の半ばほどのところにさしかかったとき、シムズは突然、「ああ、俺は死ぬのだ」と思った。するとシムズのまぶたの裏には、それまでの彼の人生の折々の光景が走馬灯のようによみがえってきた。
最初に、子どもの頃飼っていた子犬の顔が浮かんできた。あの犬は、吠えすぎたせいで咽喉の癌にかかり、死んだのだったなあ。こう思うと、その犬もまた自分の傍らを一緒に落ちていくのだった。
続いて最初のガールフレンドの顔が浮かび、それと並んで彼女の母親の顔も浮かんできた。「彼女より母親のほうがセクシーだったなあ。」と彼は思った。
その次は初めて運転したレンタカーのトヨタカローラが浮かんできた。俺は金がなくて、とうとう自分の車を買えなかった。彼は後悔するでもなく、そんなことを漠然と考えた。
地上100メートルのところで、シムズは形而上学的な瞑想にとらわれた。「俺はこうして落ちていくために、わざわざこの絶壁を登っていったんだ。」
最後の局面のわずか.00075秒のほんの一瞬の間に、残りの人生が一束になって現れ、猛スピードで展開した。シムズはその中から思い出のある光景を選んで見つめようとしたが、突然落ちてきた軌跡に気をとられた。その瞬間彼は地面にたたきつけられて死んだのである。
幸か不幸か生き返ってしまったことについて、シムズは複雑な感情を持っているようだ。身体はばらばらになり、自由は利かなくなった。この記事は舌を使ってパソコンを操作し、やっとの思いで書きあげたのである。
さて、筆者は最近、シムズ同様空中を落下した男のケースについて、身近に二件遭遇した。いづれも事故ではなく自殺のケースである。
一人はマンションの8階から飛び降り自殺を図った。飛び降りる瞬間、彼が何を考えていたか、余り定かではない。ただむやみと死にたい気持ちが、これでやっとかなえられる、そう思ったらしい。
バルコニーに足をかけ、その上によじ登ると、一気に身を踊りだした。身体は一瞬ふわっと空中に浮かび、そのまま下へ落ちていったが、頭の中はほとんど空っぽの状態で、シムズのようにまぶたの裏に何かが浮かんできたことはなかったらしい。落下する距離が短か過ぎたためだろうか。
足を下に向けた状態のまま落下した彼は、二階の庇の所についていた落下防止用ネットに、足から突入した。ネットは細い針金で出来ていたが、それを突き破るとそのまま地上のコンクリトーにたたきつけられた。
すぐさま人が駆けつけてきて、「おい、大丈夫か」と聞かれた。彼はとっさに「大丈夫だ」と答えたが、何が大丈夫なのか、自分でもわからなかった。
下半身を失った状態で生き延びた彼は、不首尾に終わった自殺のことを考えるたびに、ため息ばかりが出てくる。やり方を間違えたために、こんな苦しい思いをしなければならない。あの落下の最中自分は始終意識がはっきりしていた。落ちることと、死ぬことへの恐怖はなかった。ただ、そのまま死んでいきたかっただけだ。死ぬことに真の愉悦がある、あのときの自分はそう感じていたのだ、そう彼は回想する。
もう一人の男は、14階建てのマンションの屋上から飛び降りた。先の男と違って、身体は落下中に横向きになったらしく、仰向けの姿勢で地上に駐車してあった車の上に突入した。車は屋根に穴が開き、本人は即死した。
この男が死の直前に何を思い浮かべたか、死んでしまった本人からは聞くことが出来ない。家族や関係者の話によると、数年来「うつ」に苦しみ、最近は自殺願望を抱いていたらしい。自殺を防止するために、強制的に入院させたこともあったという。数日前には、大量の睡眠薬を飲んで自殺を図ったが、家族がすぐに発見して救急車を呼び、早期に胃の洗浄を施したおかげで死なずにすんだ。
家族は睡眠薬騒ぎのときに、もうすこし気を遣って自殺を防止する手立てを打つべきだったと悔やんでいる。
だが、本人の身になってみれば、やっとこの世の苦しみから解放されて、永遠の安息を得ることができた、そういえるかもしれない。恐らくこの男が死ぬ瞬間には、幸福な過去がよみがえってきたのであろう。
関連リンク: 日々雑感