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レウキッポスとデモクリトス:原子論的世界観


原子論は、タレスに始まる初期ギリシャの自然哲学的世界観の一つの到達点を示している。ギリシャの哲学者たちは、世界を形作っているそもそものもと、つまりアルケーとは何かについて考察を進めるうち、質量としてのアルケーについてはますます多元論的な方向に向かう一方、存在を非存在から峻別し、存在者を存在させている原因とは何かについて、考察を深めていった。レウキッポスとデモクリトスの原子論は、これらの問題に一定の結論をもたらしたのである。

まず質量因としての世界の構成要素については、エンペドクレスの四大の説をへてアナクサゴラスが多元的世界観を説いていたが、原子論者たちはその説をさらに推し進めて、世界は無数の原子によって構成されていると説いた。この考えを最初に抱いたレウキッポスはパルメニデスのほぼ同時代人であって、アナクサゴラスよりは以前の時代の人であったが、デモクリトスがこの説をとりあげ、多元論の流れの中に改めて位置づけたのである。

存在と非存在の問題については、パルメニデスが大きなアポリアを提出していた。パルメニデスは世界には存在するものしかあらず、非存在なるものは形容矛盾だと主張していた。ギリシャ人にとって、空虚は何者も存在せず、したがって非存在の典型のように受け取られていたが、彼によれば、われわれの眼には何も存在しないと見える空虚も、実は実体として存在する。それを証明するために、パルメニデスは空のバケツをさかさまにして水の中に突っ込んだりして見せたのであった。

パルメニデスはその説を更に進めて、存在から非存在への移行としての消滅であるとか、非存在から存在への移行としての生成とか、およそ「成る」という言葉で説明されることを否定した。世界には「成る」ということはない、ただ「ある」ということのみある。我々の眼に「成る」ように映るものは、感覚のもたらした仮象に過ぎない。

パルメニデスの弟子ゼノンは、師匠の説を補強するために、飛んでいる矢は静止しているという、あの有名な命題を論証し、哲学者たちに難題を突きつけていた。

これに対して原子論者たちは、世界は原子と空虚からなっていると主張した。原子は存在者であり、空虚は非存在である。原子は存在者としては分割不可能な実体であり、無へと消滅したり、無から生成したりはしない。その意味ではパルメニデスの存在者と同じ性質を持つ。

世界とは空虚という大きな入れ物の中に無数の原子が納まっているものとしてとらえられる。そして原子がくっつきあったり、離れたりすることによって様々な物体や事象が生ずる。これが、原子論者たのおおまかな主張であった。

レウキッポスについてはわからないことが多く、中には架空の人物ではないかとの見方もあるが、アリストテレスも言及しており、そこから推察するとパルメニデスより一世代後の人だったようだ。パルメニデスと同じくエレアの人という説もあるが、おそらくはミレトスの人だった可能性が高いとされる。

レウキッポスはパルメニデスから大きな影響を受けたと思われる。その説はパルメニデスの提出した問題に答えようとして深められた。つまり彼はパルメニデスの主張した一元論に、イオニア自然学の伝統たる多元論を結び付けようとしたのだろう。言い換えれば、理念的な世界観と感覚に現れる多様な現象とをどう融和させるかという努力だったようだ。

レウキッポスの原子は、「アトム」つまり分割不能なものという意味であり、パルメニデスの「一者」あるいは「完全充実体」を引き継いでいる。レウキッポスがパルメニデスと異なっているのは、このアトムの入れ物として空虚を持ち出した点である。このことによって、レウキッポスは空虚の中でのアトムの運動を説明し、我々の感覚にあらわれる世界の多様性を説明しようとしたのである。

デモクリトスは、ソクラテスやソフィストたちの同時代人だった。トラキアのアブデラの生まれとされる。トラキアといえばオルフェウス教が盛んな地であり、東方的な色彩の濃いところであったが、デモクリトスはイオニアの自然学を流れる合理的な精神に富んだ人物だった。

デモクリトスはレウキッポスの原子論を引き継ぎ、それを体系的な形に展開した。世界のアルケーはアトムと空虚である。世界は絶えず生成消滅しているように見えるが、それはアトムが空虚の中で融合したり離反したりすることからもたらされる。アトムそのものは何らの外的作用をもうけず、変化もせず、堅固な性質のものである。世界には何者もあらぬものから生ずることはないし、あらぬものへと消滅することもない。すべてはアトムの運動によって動いている。

こうしたデモクリトスの見方は、あまりにも機械論的で、世界を偶然に起因させるものだとして批判を浴びた。だがデモクリトスは世界に偶然などはなく、すべては必然の法則にしたがって動いていると主張した。その必然性が、ソクラテス以降の哲学者たちが主張した目的因とか、あるいはアナクサゴラスの理性とか、人間の精神を介在させていないだけのことなのである。

実際デモクリトスは徹底した唯物論者だった。彼は人間の精神でさえアトムから成っていると考えていた。彼にとっては思考もまた物理的な過程なのである。宇宙は目的だとかいう精神的な原理ではなく、機械的な法則に支配されている。その法則を探求するのが哲学者の勤めである。こうデモクリトスは考えた。

デモクリトスは古代ギリシャの哲学者たちの中でも、一級の知的巨人であったといえる。その関心の範囲はあらゆる方面にわたり、あらわした著作の数はおびただしいものにのぼった。ディオゲネス・ラエルティオスは、デモクリトスの膨大な著作を、倫理学、自然学、数学、文芸の四部門に分けて分類列挙しているが、そのほとんどは今日まで伝わっていない。

デモクリトスの著作がそのままの形で今日まで伝わっていたとしたら、西洋哲学は異なった流れをたどっていたかもしれない。それほど彼の主張には根本的なものがある。

幸か不幸か西洋哲学の主流は、プラトンからアリストテレスにつながる、人間主義的な方向をたどった。その流れの傍らで、デモクリトスの主張はあまりにも違和感を持って受け止められたのであろう。プラトンはデモクリトスについて一言も言及していない。


関連リンク: 知の快楽

  • タレス:最初の哲学者

  • ピタゴラス:合理と非合理

  • ヘラクレイトス:万物流転の思想

  • パルメニデス:形而上学の創始者

  • エレアのゼノン:逆説と詭弁

  • エンペドクレス:多元論的世界観

  • アナクサゴラス:ヌースの原理

  • プロタゴラスとソフィストたち
  • ソクラテスとは何者か

  • プラトン哲学の諸源泉






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