前稿「世界がコシヒカリを作り始めた」のなかで、NHKの報道番組を紹介しながら、日本の米をめぐる現状とその行方について考え、確固とした農業政策の必要性を痛感した。NHKは更に、政府による農業政策がどのように行われ、どのような結果をもたらしているかを、改めて取り上げているので、今回はそれを材料にしながら、日本の米と生産者の未来について考えてみたい。
番組は、秋田県美郷町の水田地帯を舞台に、集落営農に取り組む人々を追っていた。集落営農とは、集落を単位にして大規模化を図ろうとする試みである。個人単位の小規模な水田をまとめて大規模化するとともに、農作機械も集落単位で保有し、効率的な利用を図る。水路の管理など共同の作業は、自発的な参加を期待するのではなく、賃金を支払うことで、積極的参加を促す。
こうした取り組みは、国の農業政策にのっとって行われている。農水省は、広く薄く補助金をばらまく従来の方法を改め、大規模農業に焦点を絞って助成する方法に舵を切り替えてきた。この場合、個人による大規模化には限度があるから、集落単位で生産体制の集約化を図る方法が用いられているわけである。
生産者たちは、生き残るために、国の補助をばねにして、大規模化と効率化を追求している、またそうせざるを得ない。こうした流れに乗り遅れ、大規模化に失敗した人々には、厳しい未来が待ち受けている。いまや、従来型の営農で食っていけないことは、前稿でみたとおりだ。
一方、従来から大規模化が進んでいる大潟村の現状についても、番組は紹介していた。ここは水田の平均面積が15ヘクタールと、日本の水田地帯の中ではとびぬけて規模が大きい。そのメリットを生かして、一昔前まで、農家は安定的な営農が出来たという。日本の農業の好ましい姿を示す、モデル農村とされてきた所以である。
ところが、こうした地域でも、営農は厳しいものになりつつある。米価の下落がとどまらないからだ。平成5年に60キロ(=1俵)あたり2万5千円前後であった米価が、今年は11000円にまで下落した。この間、15ヘクタール(1ヘクタールはほぼ1町歩に等しい)の水田から上がる粗収入は、反当り12俵の収穫と仮定して、4500万円から1980万円まで激減したわけである。15ヘクタールの水田を耕すためには、大型機械など巨額の費用がかかることを考えると、大規模営農といえども、安定的な基盤に立っていられないことを示している。
小規模営農の現状はもっときびしい。日本の水田のうち4割は、山間などに細々と切り開かれた小規模な水田が占めている。現在の日本の農業政策では、そうした小規模営農は視野に入らず、したがって事実上切り捨てられているも同然だ。番組では6反の水田を耕す人が紹介されていたが、その生活は悲惨としかいいようがなかった。ところが日本の米生産者の多くは、この人と同じような条件に置かれているのである。
小泉・安倍政権の時代を通じて、構造改革なるものが声高に叫ばれてきた。それは農業政策の分野にあっては、小規模営農の切捨てと大規模化の追及であったことが、この番組を通じてよくわかる。だが、大規模化を追求したからといって、農業基盤がよくなる見込みがないことも、この番組は示していた。
国の政策にせかされて大規模化を追及する人たちも、取り残されて小さな水田を耕す人も、懸命に生きていることには変わりはない。それなのに、待ち受けている未来は同じように暗い。
このままでは、日本の農業は袋小路に追い込まれる。そんな危惧を感ずる。何故そうなってしまうのか、よく考えねばならない。少なくとも、まじめに働いている人が報われない社会であってはならない。
関連リンク: 日々雑感
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