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形影神(陶淵明:自己との対話)


陶淵明は自分自身を形影神、つまり身体と影と精神の三つに分解し、それぞれに話をさせるという珍しい手法を用いて詩を作った。「形影神」がそれである。

この詩は己の分身たちの間に繰り広げられる対話である。従来対話を辞や賦の形で述べたものはいたが、このように詩の中に取り入れたのは、陶淵明が始めてである。また、人間を形と影に分ける考えは、道士達のなかにもあったが、それに精神を加えたのは、陶淵明が始めてである。

色々な意味で、中国の詩の歴史の中で異彩を放っている作品だといえる。

詩には次のような序文が付されている。


形影神・序

  貴賤賢愚、莫不營營以惜生、斯甚惑焉。
  故極陳形影之苦、言神辨自然以釋之。
  好事君子、共取其心焉。

  貴賤賢愚、營營として以て生を惜しまざる莫し、斯れ甚だ惑へり。
  故に極めて形と影の苦しみを陳べ、神の自然を辨じて以て之を釋けるを言ふ。
  好事の君子、共に其の心を取れ

世の中の貴賤賢愚はことごとく、あくせくとして命を惜しまないものはないが、それは甚だ間違っている

それゆえ、形と影の苦しみを述べ、神がそれに対して解釈するところを説明してみたいと思う。

興味のある方は、耳を傾けて欲しい。

このように述べた後で、まず形(身体)の言い分が紹介される。形は、命は有限なのであるから、生きている間に楽しもうと歌う。


形贈影

  天地長不沒  天地 長へに沒せず
  山川無改時  山川 改むる時なし
  草木得常理  草木 常理を得て
  霜露榮悴之  霜露 之を榮悴せしむ
  謂人最靈智  人は最も靈智なると謂ふも
  獨復不如茲  獨り復た茲くの如からず
  適見在世中  適ま世の中に在ると見るも
  奄去靡歸期  奄ち去って歸期靡し
  奚覺無一人  奚んぞ覺らん一人無きを
  親識豈相思  親識も豈に相思はんや
  但餘平生物  但だ平生の物を餘せるのみ
  擧目情悽洏  目を擧ぐれば情は悽洏たり
  我無騰化術  我に騰化の術無ければ
  必爾不復疑  必ず爾らんこと復た疑はず
  願君取吾言  願はくは君吾が言を取り
  得酒莫苟辭  酒を得なば苟しくも辭するなかれ

天地自然は永久になくならない、山川も変わることはない、草木は自然の法則に従い、開いたりしぼんだりするものだ

人間は最も靈智な生き物とはいえ、特別な存在であるわけではない、たまたま世の中に生きているとはいえ、すぐに死に去って再び戻ることはない

いつの間にか一人がいなくなっても気づくものはおらず、親しいものとて、いつまでも偲んでくれるわけではない、後には生前使っていたものが残るのみだ、これを思えば人間とははかないものだ

人間には仙人のように不死の世界に舞い上がる術はないのだから、そうなるのは仕方のないことなのだ、だから君よ、私の言うことに耳を傾け、酒があらば決して辞退してはいけない

ついで影の答えが紹介される。快楽を主張する形に向かって、影は死後にも人々に偲んでもらうために善行を積みなさいと勧める。


影答形

  存生不可言  生を存するは言ふべからず
  衞生毎苦拙  生を衞るすら毎に拙なるに苦しむ
  誠願遊崑華  誠に崑華に遊ばんと願へども
  邈然茲道絶  邈然として茲の道絶えたり
  與子相遇來  子と相ひ遇ひしよりこのかた
  未嘗異悲悦  未だ嘗つて悲悦を異にせず
  憩蔭若暫乖  蔭に憩へば暫しば乖るるが若きも
  止日終不別  日に止まれば終に別れず
  此同既難常  此の同は既に常なり難し
  黯爾倶時滅  黯爾として倶に時に滅ぶ
  身沒名亦盡  身沒すれば名も亦盡く
  念之五情熱  之を念へば五情熱す
  立善有遺愛  善を立つれば遺愛有らん
  胡爲不自竭  胡爲れぞ自ら竭くさざる
  酒云能消憂  酒は能く憂ひを消すと云へども
  方此詎不劣  此に方ぶれば詎ぞ劣らざらん

いつまでも生きていられないことは申すまでもない、つつがなく生きることにさえ汲々とせざるをえない、あの仙人のいるという崑崙山に行こうと思っても、はるか遠くにあって、そこへ行く道さえわからない

私(影)があなたと出会って以来、今日までいつも一緒にいた、日陰に入れば離れ離れになってしまうが、日向にいれば常に一緒だ、

だがこうしていつまでも一緒にいられるわけではない、やがて世界が暗くなってともに滅ぶ時が来る、身体が滅びれば名前も残らない、このことを思うと心の中が煮えたぎる

日ごろ善行を積んでおけば死後も尊敬されるだろう、だから誠意を尽くすべきなのだ、酒は愁いを消してはくれるが、今いったことには及ばない

形と影の相対立する主張は、精神によって仲介される。精神は、形と影の言い分にはそれぞれ限界がある、人間は畢竟運命に従って生きるほかはないのだと、結ぶのである。


神釋

  大鈞無私力  大鈞 力を私することなく
  萬理自森著  萬理 自づから森として著はる
  人爲三才中  人の三才の中爲るは
  豈不以我故  豈に我を以ての故ならずや
  與君雖異物  君と異物なりと雖も
  生而相依附  生れながらにして相ひ依附す
  結托既喜同  結托して既に同じきを喜べば
  安得不相語  安んぞ相ひ語らずを得んや

造化の妙は個人の力のよく及ぶところではなく、万物はそれぞれの性に従って繁茂する、その中で人が、天、地、人の中心でいられるのは、この私(精神)があるからではないか

君たちとはおのずから別物とはいえ、生まれながらお互いに依存し合ってきた間柄だ、運命をともにしているのだから、君たちのいうことを聞いて口を差し挟まないわけにはいかない

  三皇大聖人  三皇は大聖人なるも
  今復在何處  今復た何處にか在る
  彭祖愛永年  彭祖は永年を愛せしも
  欲留不得住  留らんと欲して住まるを得ず
  老少同一死  老少同に一死し
  賢愚無復數  賢愚復た數ふる無し
  日醉或能忘  日に醉へば或ひは能く忘れんも
  將非促齡具  將た齡を促す具に非ずや

かの三皇は大聖人であったが、今はもう存命していない、彭祖は永遠の命を願ったが、死を免れるわけに行かなかった

老人も少年も一度は死ぬ、賢者も愚者も二度生きることはできない、酒に酔えば愁いを忘れることはできようが、命を縮めるだけではないのか(復數:二度の運命)

  立善常所欣  善を立つるは常に欣ぶ所なるも 
  誰當爲汝譽  誰か當に汝が譽と爲すべき
  甚念傷吾生  甚だしく念へば吾が生を傷つけん
  正宜委運去  正に宜しく運に委ね去るべし
  縱浪大化中  大化の中に縱浪し
  不喜亦不懼  喜ばず亦懼れず
  應盡便須盡  應に盡くべくんば便ち須からく盡きしむべし
  無復獨多慮  復た獨り多く慮ること無かれ

善行はたしかに喜ばれるが、誰も君たちのしたこととは思わないだろう、無理をすれば自分を傷つけることにもなる、だから運命に従って自然に生きるのがよいのだ

人生の流れに従い、喜ぶこともなく恐れることもなく、寿命がきたら潔く受け入れるがよい、くよくよと思い悩むことはやめたまえ


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