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ウィリアム・ブレイク William Blake :生涯と作品


ウィリアム・ブレイク William Blake(1757-1827) は、イギリスロマンティシズムの初期を代表する詩人にして画家である。彼の業績は詩と絵画を別々にしては考えられない。その詩の殆どは、挿絵を伴った絵本の形で出版されたし、また、詩も絵画もブレイクという芸術家が抱いていた世界観を、それぞれの形で表現したものといえるからだ。

ウィリアム・ブレイクを著しく特徴付けているのは、深い宗教的感情と、幻想的な資質である。ブレイクは分離派の信仰を持った母親の強い影響を受け、新約聖書の教えとその世界を自分の生涯の生き方の指針とした。ブレイクにとって理想の社会とは、新約聖書の精神にのっとった社会であり、神の栄光があまねくいきわたっている社会であった。しかしてブレイク自身、新約の預言者のごとき口調で自分の宗教的考えをのべることが多かった。

ブレイクの幻想的な傾向は子どもの頃からのものだった。9歳のとき、ブレイクは道を歩いていて、一本の木に天使たちが群がっている光景を見たと両親に報告して、両親を驚かせた。ブレイクは少年時代にたびたび見た幻想的な光景を、壮年になっても忘れず、そのヴィジョンをありありと描き続けた。

ブレイクの思想や芸術は、エクセントリックな部分が多いので、とかく誤解されがちであったが、それにもかかわらず、イギリスの芸術史上もっとも偉大な人物の一人として評価されてきている。現代においても、ブレイクの評価はますます高まっているといってよい。

ウィリアム、ブレイクは衣料商の子として生まれた。母親のキャサリンは再婚で、7人の子を産んだ。ウィリアムは第三子である。母親は初婚の際にはモラヴィア教会という分離派の宗教を信仰していたが、再婚の際に改宗したという。しかし生涯分離派的な宗教感情を抱いていたとされ、それが幼いウィリアムにも受け継がれたと考えられる。

ブレイクは正規の学校教育を受けず、主に母親によって教育された。用いられた教材は主に聖書だったという。

ブレイクは小さい頃から絵画に関心を示し、ギリシャやローマの塑像を好んでスケッチしたほか、ラファエルやミケランジェロの絵のコピーを集めたりした。ブレイクの絵を特徴付ける、柔軟な身体のイメージは、こうした子どもの頃の経験に裏打ちされているのであろう。また詩にも関心を示し、ベン・ジョンソンやエドマンド・スペンサーを愛読したという。

14歳のとき、ブレイクは銅版画家ベイジャー James Basire のもとに弟子入りし、21歳まで銅版画の修行をした。ベイジャーの銅版画のスタイルは時代遅れのものだったらしいが、ブレイクはそこで己の絵画のスタイルを築きあげていく。とくにベイジャーに命じられて、ウェストミンスター寺院のスケッチに2年間従事したことは、その後のスタイル確立に向けて大きな糧となった。

寺院の暗い空間の中で祭壇の装飾をスケッチしていると、自分の傍らを天使たちが横切っていった、とブレイクは後年になって回想しているが、ウェストミンスター寺院の中での濃密な空間と時間は、ブレイクの芸術形成に特異な効果を及ぼしたのであろう。

ベイジャーのもとを巣立った後、ブレイクはローヤル・アカデミーに入るが、当時のアカデミーの校長だったレイノルズの考え方にあわず、ことごとく反逆したらしい。ブレイクはレイノルズらの当世風の油彩画より、初年時代からの好みだったラファエルやミケランジェロの芸術を重んじたのである。

ブレイクの反逆的な性質は、1780年6月に起こった「ゴードンの乱」の際に発揮された。これはアメリカ革命との連帯感を表明する人々が暴徒となってニューゲートの監獄を襲った事件であるが、ブレイクはその暴徒の列の先頭に立っていた可能性が高いのである。

1782年、25歳のときに、ブレイクはキャサリン、バウチャーと出会い、結婚した。キャサリン(母と同じ名前)はブレイクより5歳年下で殆ど文盲に近かったというが、ブレイクは辛抱強く妻を教育し、また自身の製作のための助手として訓練した。その甲斐があって、キャサリンは生涯にわたり、ブレイクの貴重なパートナーとなる。

この頃ナショナル・ギャラリーの創設者の一人として知られるジョージ・カンバーランド George Cumberland と知り合い、1783年にはカンバーランドの援助を受けて、処女作 Poetical Sketches を出版する。

1784年に父親が死ぬと、ブレイクは弟のロバートとともに銅版画のプリントショップを開いた。かたわら All Religions are One を出版したりするが、商売は余り繁盛しなかったらしい。

1788年、31歳のとき、ブレイクは銅版画に新しい技法を導入し始めた。銅板に絵画の輪郭と文字を描いた上に、抗酸性の液を塗りつけ、それを酸にさらすことで、抗酸処理をされていない部分を溶かすというものである。その結果、絵の輪郭と文字がくっきりと浮かび上がるようにプリントできる。あとは水彩絵の具を用いて輪郭の内部や周辺に彩色を施すのである。

この方法は従来のやり方を逆転させるものであった。おかげでプリントを手早くしかも大量に生産することが出来るようになった。ブレイクはこの方法を、夢の中で神のお告げによって知らされたと述べている。

ブレイクはこの新しい方法を用いて、「無垢の歌」や「経験の歌」などの詩画集を次々と発表した。妻のキャサリンがその製作に大いに協力したのはいうまでもない。

1800年、ブレイクはサセックスの村にある小屋に移り住んで、そこで「ミルトン」を書き、1802年には再びロンドンに戻って、畢生の対策「イェルサレム」の執筆に没頭した。

晩年のブレイクは、絵画の制作に勢力を傾けるようになり、ダンテの神曲をテーマにした一連の版画や、独立した水彩画を多く残した。それらの殆どは小さなサイズの作品である。

ブレイクの宗教的傾向は生涯変わらず、それは「経験の歌」における現世批判から、ダンテを題材とした一連の絵までを貫いている。また、ブレイクの宗教観は政治を見る目にも表れ、アメリカの独立革命やフランス革命に、新しい神の秩序を形成するという視点から、大いに共鳴した。

ブレイクは70歳にしてこの世を去るまで、意識明瞭を保ち、己の運命を厳粛に受け止めながら死の床についた。彼の最後の言葉は、「自分は人間としてではなく、祝福された天使として死んでいくのだ」というものであった。


関連リンク: 英詩のリズムブレイク詩集「経験の歌」

  • ブレイク詩集「無垢の歌」 Songs of Innocence






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