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遊女の社会史:日本売春文化の始まり


かつて東欧の社会主義体制が崩壊して経済が一時的に混乱状態に陥ったとき、いち早く復活したものに売春があった。社会主義体制のもとでは基本的にありえなかったこの職業を、当時のジャーナリストたちは人類最古の職業が復活したといって、皮肉っぽく紹介していたものだ。

売春が果たして人類の歴史の黎明期に遡るほど古い文化なのか、筆者にはいまのところ詳しく跡付ける資料がない。ただ大まかに、エジプトやオリエントの古代文明において売春を行とする遊女たちが存在したらしいことを、断片的なデータに基づいて知るのみである。

比較的よくわかっているのはローマ時代である。都市の中に多く作られた公衆浴場を舞台にして、遊女たちが活躍していたことが知られている。また、中国においては、唐の時代に大規模な遊郭街が形成され、売春文化ともいうべきものが花開いた。日本でもその影響を受けてか、室町時代に遊女たちを集めた遊郭街が京の辻々に出現し、また徳川時代には京都島原や江戸吉原に公認の遊郭街が作られた。

しかし日本で性を売り物にする職業が成立するのは、そう古いことではない。せいぜい鎌倉時代に遡るくらいである。それ以前にも遊女という言葉はあちこちに出現するが、それは文字通り芸を売る女たちをさしており、売春を伴うことは殆どなかったものと思われる。

万葉集は、遊行女婦(うかれめ)の作品とされるものをいくつか収めている。筑紫娘子、蒲生娘子、小島娘子といわれる女たちである。その名称からして、現代のわれわれには性を売る遊女を連想させるが、実体はそうではなかったものと思われる。小島娘子などは大伴旅人の宴に列して、即興で歌を詠んでおり、かなりの教養を感じさせもする。

これらの女たちは、諸国を歩き回りながら、管弦や音曲などを披露していたのではないか。遊行女婦の遊行という文字には、今日言うような遊びという意味よりも、放浪するという意味合いが強かった。だから「うかれめ」とは「浮かれ騒ぐ女」という意見合いより、「諸国を放浪して芸を売る女=女芸能者の一団」という意味が込められていたと思ってよい。

このような遊行女婦たちの、やや時代が下がった頃の姿を、更級日記の作者が書きとめている。京に向かう一行が足柄山に差し掛かったとき、遊行女婦の一団が現れて芸を披露するくだりである。

「ふもとに宿りたるに、月もなく暗き夜の、闇に惑ふやうなるに、遊女(あそびめ)三人(みたり)、いづくよりともなくいで来たり。五十ばかりなるひとり、二十ばかりなる、十四、五なるとあり。庵の前にからかさをささせて据ゑたり。をのこども、火をともして見れば、昔、こはたと言ひけむが孫といふ。髪いと長く、額いとよくかかりて、色白くきたなげなくて、さてもありぬべき下仕(しもづか)へなどにてもありぬべしなど、人々あはれがるに、声すべて似るものなく、空に澄みのぼりてめでたく歌を歌ふ。人々いみじうあはれがりて、け近くて、人々もて興ずるに、「西国の遊女はえかからじ」など言ふを聞きて、「難波わたりに比ぶれば」とめでたく歌ひたり。見る目のいときたなげなきに、声さへ似るものなく歌ひて、さばかり恐ろしげなる山中に立ちて行くを、人々飽かず思ひて皆泣くを、幼き心地には、ましてこの宿りを立たむことさへ飽かず覚ゆ。」

これは11世紀はじめの出来事である。遊女が3人、いづれも汚げなき様子で、身を持ち崩したイメージはない。若い方の女は「こはた」という遊女の孫だと名乗っている。遊女の職業が母親から娘へと受け継がれていたことを思わせる。その芸は質が高く、即興の歌を詠むほどに才知にも長けていた。

こうした遊女たちが性を売るようになるのはいつごろのことだろうか。詳細はわからぬが平安時代中期にはその兆しが現れているようだ。10世紀前半に成立した辞書「和名類聚抄」には、遊女の説明として、「昼に遊行するを遊女といひ、夜を待ちて淫売を発するを夜発といふなり」とある。ここにある夜発が性を売るもの、つまり売春の始まりの形と思われるのである。

売春は性を買う男と、金のために性を売る女の存在を前提とする。日本の古代は、女の自立性が高かった時代である。そこでは暮らしのために性を売ることの必然性が弱かったと同時に、金を払って女の性を買う男もいなかった。古代の日本は男女の結びつきが弱く、男も女も非常に簡単に配偶者を変えた。このような結婚の形態を対偶婚という。このような社会においてはしたがって、婚姻の外に特別に性的はけ口を求める動機が希薄だったのである。

日本において女が性を売るようになるのは、女の自立性が弱まる一方、男の経済的な支配性が高まる時代の到来を物語っていた。伝統的な婿取り婚に変わって嫁取り婚が支配的な形となり、一夫一妻制が定着していくのに伴い、婚姻の外に性の捌け口を求める男と、暮らしのために性を売る女が登場してくる。こうして日本においても、売春文化というべきものが発展していくのである。

日本の売春文化は、鎌倉時代には「好色家」とか「傾城屋」といった売春宿を生み出し、室町時代には「辻子君」と呼ばれる遊女が街の一角に集められて大規模な売春に従事するようになる。かつて女芸能民として高い技芸を誇っていた白拍子やクグツの集団もこうした流れに飲まれていく。

先に紹介した「更級日記」の遊女たちは、時代の変換期に生きた人びとだったのだろう。


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