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アリストテレスの形而上学:質料と形相


形而上学という言葉は、西洋哲学の長い歴史の中でさまざまな衣をかぶせられ、実に曖昧な意味に覆われてしまった。時にはこの世の秩序を越えた天上界のことを研究する学問という風にも解釈される。しかし、もともとこの言葉の元になったアリストテレスの著作は名称を持たなかったし、アリストテレスの著作を整理して名称を付した者にとっても、形式的な意味しか持たなかったのである。

アリストテレスの著作「形而上学」は、アンドロニコスによって分類整理された際、自然学の後におかれた。そこから「メタ・タ・フュジカ(自然学の後に)」と名付けられた。この言葉が転用されてメタフィジカとなり、この書物の中で展開されている思想を表す言葉となったのである。

「形而上学」がカバーしている知の領域は広範なものにわたるが、最も重要な部分は、存在としての存在を研究するところにある。存在を研究する学問には、自然や人間社会など特定の存在領域に関する個別の学問があるが、それらを超えて、存在を存在たらしめる究極の根本原理に関する学問があらねばならぬ。アリストテレス自身はそれを第一哲学と呼んだのであるが、後世の人々は「形而上学」と呼んで来たのである。

アリストテレスの存在論は、師プラトンのイデア論との対決を通じて、普遍的な存在と個別的実体との新たな相互関係の中で、イデア的なものを位置づけなおすところに、本質的な意義を有している。

プラトンは、ソクラテスに倣って個別的な事象から出発しながらも、その背後に見出したとする普遍的な概念をイデアと名付け、それに実体としての存在性を付与した。こうして、真の存在としてのイデアと、仮象としての現象界とを対立させ、その間に越えることのできない溝を設けることによって二元論の袋小路に陥った。そうアリストテレスはプラトンのディレンマを総括する。

アリストテレスにとって重要だったことは、個別的な事象と普遍的な存在とを、同一の平面において結びつけ総合することであった。

アリストテレスによれば、普遍という名詞によって意味されるものは、多くの主語の述語となるようなものである。個体とはそのようには述語とならないものである。

固有名詞によって意味されるものが「実体」であり、「人間」というような部類を現す名詞によって意味されるものが「普遍」である。実体とは「このもの」であり、普遍とは「のようなもの」である。普遍は現実の「このもの」ではなく、したがって実体とすることはできない。普遍名詞の意味するものが、固有名詞の意味するものに依存していて、その逆ではない。

アリストテレスはいう。「いかなる普遍的名詞も、実体の名称であることは不可能だと思われる。なぜなら・・・それぞれのものの実体は、それ独特のものであり、他のいかなるものにも属さないからである。しかし普遍は公共的である。なぜなら一つ以上のものに属するものが普遍と呼ばれるからである。」

アリストテレスはこのように解釈することで、「普遍」つまり「イデア」の実体性を否定し、それを論理的な言明のうちに移し変えてしまう。このようにして、普遍は論理的な思考の一環として位置づけされ、論理学という同じ平面の中で、個別的存在と関連付けられるに至ったのである。

したがって、アリストテレスの形而上学は、論理学と分かちがたく結びついている。

普遍と個別的実体との関係と並んで、アリストテレスの形而上学の主要な思想となっているのは、質料と形相に関する説である。

たとえば大理石の像を例に取ると、大理石はその像の質料であり、像があらわす形は形相である。大理石はそれのみによっては単に石の塊に過ぎない。石工がそれに形相を付与することによって、始めて具体の像となる。だがその像は質料としての石を離れては存在し得ない。このように、アリストテレスは個別の実体の中に、質料と形相という一対の概念を持ち込むことによって、具体的存在者の本質をめぐる論議に道を開いた。

本質とは、それを除外しては物事が当の物事でなくなるようなものである。では物事を物事たらしめているのは何か。アリストテレスは、形相こそそれなのだという。質料はそれ自身では何にでもなりうるが、現実には何でもないものである。それを何者かに生成させるのは形相である。だから形相こそが個別的存在をそのものとしてあらしめる本質なのである。こうアリストテレスは推論した。

何者でもなく、また何者にもなりうる可能性を備えたものは、可能態(デュナミス)であるとされる。質料に形相が付与されてある特定のものが生成したとき、それは現実態(エネルゲイアあるいはエンテレケイア)の状態にあるとされる。このように物事の生成とは、デュナミスからエネルゲイアへの移行ととらえられる。

質料と形相とは互いに相容れないものではない。特定の質料と特定の形相とが結びついてあるものが出来上がるとしても、そのあるものがまた別のあるものの素材となることもある。この場合には、はじめのものの形相が、次のものにとっては質料となる。このように、形相は、下位のものから上位のものにむかっての階層をなしてもいる。しかして純粋な形相は質料を持たぬ本質、つまり純粋概念だということになる。

ところでアリストテレスは、魂は肉体の形相だと考えた。魂は人間の肉体をして、一つの有機体としての人間たらしめるための本質を付与するものなのだ。だがその魂も、理性に対しては質料となる。アルストテレスにとって、存在全体としての世界は、形相を含まぬ第一質料を最下層とし、質料を含まぬ純粋形相を頂点とする、ピラミッド型の階層秩序をなしている。しかしてその頂点に位置するのは神なのであった。


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    コメント (2)

    管理人:

    aetaさま
    ご指摘の通りです、パソコンの変換ミスです

    aeta:

    はじめまして

    細かいことかもしれませんが、
    huleの訳語は「質量」ではなくて
    「質料」が一般的ですね。

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