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日本人と食用油:油料理の歴史


油を用いた料理は、今日の日本人の食卓には欠かせないものである。中華風あるいは欧風料理はもとより、和風の料理にも天麩羅はじめさまざまなところで油がもちいられる。飽食の時代といわれる中で、その過剰摂取が健康に及ぼす悪影響が懸念されるほどである。

だが歴史的に見れば、日本固有の料理法は、油などの脂肪分をあまり用いず、淡白な味を基調としたものだった。油が日本人の食生活に溶け込んだのは、室町時代の後期から安土桃山時代にかけてである。その後江戸時代には中華料理の影響を受けて油が盛んに用いられるようになるが、一般の庶民にまで深く浸透したとはいえない。

食用油が比較的安価なものとして庶民の間に流通し、油を用いた料理が全国津々浦々に普及するのは、明治時代中期以降のことである。

日本人の長い歴史の中では、油をもちいた料理は、比較的最近の現象に属するといえるのである。

油そのものは無論古代からあった。だがそれは主に灯火用として使われたのである。王朝や貴族の邸宅、社寺の灯明に油を燃やすことは奈良時代以前から行われ、それに必要な油を、ゴマを搾って得ていた。古代においては、油は生産量が限られ、貴重なものだったようだ。

この油を食用に転用したのは、中国の影響によるものだった。奈良時代の寺院ではすでに精進料理が普及していたが、野菜ばかりでは脂肪分が不足するので、中国風をまねて、油で揚げた食物を摂取するようになったのが始まりといわれる。

中世に入ると、油を用いた精進料理は社会の各層に普及し、それに伴って食用油の需要も増したと考えられるが、日本食の中心に躍り出ることはなかった。それでも、安土桃山時代には、天麩羅が登場し、豆腐類を油で揚げるなどの方法が生み出された。この時代南蛮料理という言葉が流通したが、それは油で揚げたものを意味していたのである。

一方灯火用の油の需要は庶民層にまで広がり、それを供給する主体として、大山崎の油座が大活躍した。それは依然としてエゴマを原料としたものであり、長木というものをもちいて搾油していた。

江戸時代に入ると、「しめぎ」という道具を用いて、アブラナから菜種油を採取する方法が広まる。それに伴い油の生産量も飛躍的に増えたとされる。需要の殆どは依然灯火用であった。

江戸時代には、長崎を通じて中国風料理が広がり、油を用いた料理が庶民にも普及した。また天麩羅もよく食われるようになったが、やはり日本の食卓にあっては脇役の地位に甘んじていたのである。

明治中期以降には、カツレツ、コロッケ、オムレツなどの洋風料理が普及し、油を使った料理は庶民の食卓の中心部にまで侵入するようになる。また蕎麦と天麩羅を組み合わせた天ぷらそばが登場するなど、伝統的な和食と油を使った料理との混交が見られるようになる。大正末期には、サラダ油が登場し、油を使った料理はほぼ今日の形を整えるのである。


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