パーシー・ビッシュ・シェリー P.B.Shelley:生涯と作品

| コメント(0) | トラックバック(0)

パーシー・ビッシュ・シェリー Percy Bysshe Shelley (1792-1822) はイギリス・ロマンティシズムを代表する詩人である。イギリスのロマンティシズムは、ウィリアム・ブレイクによる先駆的な業績を皮切りにして、ウィリアム・ワーズワースとサミュエル・コールリッジによって本格的な動きとなり、19世紀初頭に至って、シェリー、キーツ、バイロンといった天才的な詩人たちを輩出した。

シェリーはロマンティシズムの詩人たちはもとよりイギリス文学全体の伝統から見ても、社会的な関心を強く打ち出した異才であったといえる。因習にとらわれぬ理想主義的な詩風は、時に観念的で上滑りの印象を与えもするが、深い人間愛と清新な感情に満ちている。

シェリーはその反逆的な生き方もあいまって、生前高く評価されることはなかったが、死後数世代にわたって、イギリスはもとより世界の詩人たちに大きな影響を及ぼした。その影響は文学の枠を超え、社会変革を目指した人々にインスピレーションを与えもした。カール・マルクスがシェリーを高く評価していたことは有名な話である。

シェリーが本格的な創作活動を始めるのは23歳頃のことである。そして30歳を前にして死んだから、その活動期間はそう長いとはいえない。しかし、彼はその間に詩人として旺盛な創造力を示した。彼の詩の中では、比較的短い抒情詩が人々に愛されてきたが、その真髄はむしろ長編詩にあったといえる。代表作の「解き放たれたプロメテウス」をはじめ、初期の「アラスター」や「イスラムの反乱」そしてジョン・キーツの死を悼んだ「アドネイス」などは、叙事詩と抒情詩が渾然と一体化した稀有の作品群といえる。

パーシー・B・シェリーは、サセックスの大地主でホィッグ党の国会議員だったサー・ティモシー・シェリーの子として生まれた。10歳でシオンハウス校に、12歳でイートン校に進んだが、学校でのシェリーの生活は、同級生からの猛烈ないじめで明け暮れた。シェリーの少女のような外見と、気取った態度が周囲の反発を招いたのだった。子どもたちに囲まれてなぶられると、シェリーは女の子のような甲高い叫び声をあげ、ますますいじめを助長させたという。

18歳でオックスフォードのユニヴァーシティ・カレッジに進んだシェリーは、殆ど講義に出ず、ひとりで読書に耽った。彼の詩人としての資質は、この時に読んだワーズワースの詩によって呼び覚まされたようである。

後にシェリーの伝記作家となるトーマス・ホッグとは大学で知り合った。2年生の時、シェリーはホッグとともに、「無神論の必要性」というパンフレットを配り、大学当局から退学処分を受ける。これには父親が介入して処分の取り消しを図ったりするが、シェリーは最後までパンフレットの内容が自分の思想であることを主張したために、復学は適わず、また父親とも仲違いして、なかば勘当されるに至った。しかし、シェリーは生涯を通じて自分で生活の資を稼ぐことはなく、父親の財産を食いつぶして過ごしたのである。

退学後19歳のシェリーは、16歳の少女ハリエット・ウェストブルックを伴ってスコットランドに旅し、二人はそこで結婚した。だがシェリーは因習的な結婚観を打破して婚外セックスを許容するフリー・マリッジの思想を抱いていた。そこで友人のホッグを呼び寄せ、ハリエットを共通のパートナーにして共同生活を始めようとする。ハリエットは、当たり前のことではあろうが、シェリーの思想を受け入れることが出来ず、ホッグとのセックスを拒絶した。

シェリーはハリエットを連れてレーク・ディストリクトのケズウィックに家を構えたが、ハリエットとは考え方が合わず、次第に心が離れていった。

20歳の頃には、アイルランドの独立運動に共感して、政治運動に首を突っ込むようになり、そのことから、イギリス政府から好ましからざる人物としてマークされるようになる。またシェリーは、リベラリストとして知られたウィリアム・ゴドウィン William Godwin に共鳴し、妻子を棄ててロンドンのゴドウィンの家に出入りするようにもなった。

ゴドウィンにはメアリーという娘があった。母親はメアリー・ウルストンクラフトという女権拡張論者であったが、メアリーを生むとまもなく亡くなった。シェリーはこのメアリーと恋に陥り、1814年、身重のハリエットと子どもを捨てて、駆け落ちした。そのときシェリーは22歳、メアリーはまだ16歳であった。(メアリーは後に「フランケンシュタイン」の作者として世界的に有名になる)

この駆け落ちには、メアリーの腹違いの姉妹クレアも加わり、3人はフランスからスイスへと旅したが、やがてホームシックにかかり、6週間後にイギリスに舞い戻った。彼らを迎えたゴドウィンは、自ら自由恋愛論を唱えていたにかかわらず、彼らの行動を強く非難し、シェリーともまた娘のメアリーとも二度と口を聞こうとはしなかった。

1815年の秋、ロンドン近郊でメアリーと暮らしていたシェリーは最初の大作「アラスター:孤独の魂」を書く。

1816年の夏、シェリーとメアリーは二度目のスイス旅行に出かけた。このときもクレアが一緒だった。クレアは前年バイロンと深い中になっていたが、バイロンが自分をないがしろにし始めたので、シェリーをダシにしてバイロンとよりを戻そうとしていたらしい。

シェリーとメアリーはジュネーヴ湖のほとりの小屋を借りて住んだ。隣にはバイロンが住んでいた。ここに二人の天才詩人の交流が始まる。バイロンはシェリーより4歳年上であったが、二人は仲のよい友人同士になり、よく文学を語り合った。シェリーはバイロンに深く動かされ、それが初期の傑作「美の讃歌」につながった。一方バイロンもシェリーから影響を受けた。「チャイルド・ハロルド」や「マンフレッド」にはシェリーの影響が伺われる。

夏の終わりに3人はイギリスに戻った。クレアはバイロンの子を宿していた。その年の暮、ハリエットがロンドン・ハイドパークのサーペンタイン池に身を投げて自殺した。まだ21歳の若さであった。後には二人の子が残されたが、いずれも里親に引き取られた。ここに再び身が軽くなったシェリーはメアリーと正式に結婚するのである。

結婚後のシェリーとメアリーはバッキンガムシャーのマーローという村で暮らし始めた。そこにはリベラリストのリー・ハントが住んでいて、彼を囲んだ文学的なサークルができていた。シェリーもこのサークルに加わり、その活動の中から「イズラムの反乱」を書き上げた。シェリーがはじめてジョン・キーツと出会ったのは、このサークルにおいてである。

1818年の初期、シェリーとメアリーは三度目のヨーロッパ旅行に出かけた。クレアに生まれた子を父親のバイロンに引き合わせるのが目的だった。だがこの旅は彼らにとっては最後の旅になった。シェリーたちは再びイギリスに戻ることはなかったのである

バイロンと再会したシェリーは創作意欲を掻き立てられ、これ以後旺盛な創作をするようになる。畢生の大作「解き放たれたプロメテウス」の創作に取り掛かったほか、優れた抒情詩を次々と書いて行った。

一方生活のうえでは、重なる悲劇に見舞われた。メアリーとの間に生まれた息子のウィルと娘のクララが相次いで死んだ。またシェリーはこの頃女の子を自分の子として引き取っているが、その子も1歳余りで亡くなっている。子どもの母親が誰であるかについては、いまだによくわかっていない。

シェリーとメアリーはイタリア各地を転々と渡り歩いた。1819年の秋には、イギリスで「マンチェスターの虐殺」と呼ばれる労働者弾圧事件がおこったことを聞き、それに抗議する詩を数編書いた。「アナーキーの仮面」や「イギリスの男たちへ」などこの時に書かれた詩は、19世紀を通じてシェリーの代表作とされてきたものであり、マルクスによって絶賛された。また有名な「西風のオード」にも、強烈な社会批判の精神が盛り込まれている。

1820年、キーツの重病を聞き及んだシェリーは、病気療養のためにピサの自分のもとにくるよう、キーツを誘った。キーツもこの誘いに心動かされたが、シェリーの家にではなくローマへ旅し、翌年その地で死んだ。

キーツの死の報に接したシェリーは、キーツのために一遍の長大な挽歌を作った。「アドネイス」である。人類の歴史上もっとも悲痛で、もっとも美しい挽歌といわれるものだ。

1822年、シェリーはかつての師で自分にとって最大の庇護者であったリー・ハントが窮乏しているのを知り、援助の意味も含めてイタリアに呼んだ。シェリーはバイロンも誘ってリベラル派の拠点たる雑誌を創刊し、リー・ハントをその編集者に迎えようと思ったのである。だがこの雑誌が軌道に乗る前に、シェリーは非業の死を遂げるのである。

1822年7月8日、シェリーはイタリア西海岸のリヴォルノからボートに乗って海路レリチに向かっていたが、途中でボートが転覆し、溺死したのであった。

シェリーの死については、いまだに謎の部分が多く、様々な憶測を呼んできた。そのどれもが、事故が偶発的なものではなかったという仮設に立っている。バイロンの金を付け狙っていた盗賊が、ボートをバイロンのものと勘違いしてシェリーらを襲ったのだろうとするものや、極端なのは、日ごろシェリーの行動について警戒していたイギリスの諜報機関が事故を装ってシェリーを殺害したのではないかというのもある。

いずれにせよ、シェリーの詩の真相はいまだに闇の中である。シェリーの遺体はヴィアレッジオの浜辺で火葬され、その灰はローマのプロテスタント墓地に葬られた。墓碑銘は「心の中の心」と記され。シェイクスピアの「テンペスト」の一節が付け加えられた。


  • 美の賛歌 Hymn to Intellectual Beauty :シェリー

  • オジマンディアス OZYMANDIAS :シェリー

  • 萎れたスミレに On a Faded Violet :シェリー

  • イギリスの男たちへ To the Men of England:シェリー

  • 1819年のイングランド ENGLAND IN 1819:シェリー

  • 西風のオード Ode to the West Wind :シェリー

  • 妖精の歌:解き放たれたプロメテウス Prometheus Unbound

  • インド風セレナード The Indian Serenade :シェリー

  • 愛の哲学 Love's Philosophy :シェリー

  • 雲 The Cloud :シェリー

  • ひばりに寄す To a Skylark:シェリー

  • あなたのキスが怖い I Fear Thy Kisses :シェリー

  • プロセルピナの歌 Song of Proserpine :シェリー

  • アポロの讃歌 Hymn of Apollo :シェリー

  • 月 The Moon :シェリー

  • おやすみ Good-Night :シェリー

  • 汚された言葉 One Word is Too Often Profaned :シェリー

  • ランプが砕けると When the Lamp is Shattered :シェリー

  • 愛の歌 Music, when soft voices die :シェリー

  • ひとりぼっちの小鳥 A widow bird :シェリー

  • 関連リンク: 英詩のリズム

  • ウィリアム・ワーズワース

  • ロバート・バーンズ Robert Burns

  • ウィリアム・ブレイク詩集





  • ≪ 雲雀に寄す To the Skylark:ワーズワース | 英詩のリズム | 美の賛歌 Hymn to Intellectual Beauty :シェリー ≫

    トラックバック(0)

    トラックバックURL: http://blog.hix05.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/579

    コメントする



    アーカイブ

    Powered by Movable Type 4.24-ja

    本日
    昨日

    この記事について

    このページは、が2008年1月26日 18:45に書いたブログ記事です。

    ひとつ前のブログ記事は「そばの食い方:日本的外食の原点」です。

    次のブログ記事は「美の賛歌 Hymn to Intellectual Beauty :シェリー」です。

    最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。