マキャヴェリ Machiavelli :君主論と近代政治思想

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様々な学者や研究者によって書かれた古今のヨーロッパ思想史の書物は、ルネサンスを代表する思想家として、必ずといっていいほど、ニコロ・マキャヴェリの名を筆頭にあげている。これは、この時代に彼をしのぐほどの優れた思想家が現れなかったという事情にもよるが、他方では、彼ほどルネサンスという時代の精神を体現していた思想家はいないという事情もある。

ルネサンスの時代精神を一言で言えば、カトリック宗教に凝縮された既成の権威を侮り、人間の自由な生き方を追求する態度であり、その過程で、目的を達成するためには、手段における多少の非倫理性を大目に見る態度であった。彼らルネサンス人は、中世人のように大儀を重んずるよりも、目的と手段の合理的な連鎖(今日で言えば科学的な方法意識)を重んじたのである。

ニコロ・マキャヴェリ Nicolo Machiavelli(1467-1527) は、こうしたルネサンスの時代精神を、政治哲学の中で展開して見せた。かれは歴史上で始めて現れた近代的な政治思想家であり、また科学的な政治理論を展開した人でもあった。

「支配者は、キツネの如く狡猾で、ライオンの如く獰猛でなければならない。支配者が常に善良であれば滅びてしまうからだ。」

この有名な言葉は、マキャヴェリの政治哲学のエッセンをなすものとして、あまりにも有名である。どんな目的も敏捷な手腕が伴わなければ、政治的な力となることはできない。したがって目的を達成するためには、何を、どのようになさねばならないか、そのことについて熟練した手腕を持っていなければならない、というのがマキャヴェリの基本的な考え方であった。

主著「君主論」は、権力を獲得し、それを維持するために、君主(統治者)は何をなさねばならないかについて、科学的な考察を加えた、歴史上始めての本であった。その考え方には、批判すべきものも多く含まれているが、そうしたマイナスの面も含めて、マキャヴェリは当時の時代精神をあからさまに表現している。

マキャヴェリはフィレンツェの法律家の子として生まれた。マキャヴェリが生きた時代、イタリアはいくつもの小国に別れ、それらが外国の勢力と複雑に結びあいながら、相互に合従連衡を繰り返すという、政治的な混乱の時代であった。イタリアの統一は遠い話であり、逆にフランスやスペインなどの外国によって植民地化されかねない恐れもあった。事実1494年には、フランス軍がイタリアに侵入し、蹂躙されるという事態を蒙っている。

フィレンツェにおいてサヴォナローラが失脚し、共和政体が実現した1498年以降、マキャヴェリはこの共和国政府のために働くようになった。マキャヴェリは後に「君主論」の中で、君主制というものを大いに論ずるようになるが、基本的には共和主義者であった。それはサヴォナローラ以後における、フィレンツェの共和政体の経験に根ざしたものだったと思われるのである。

1512年にメディチ家が復活すると、マキャヴェリは逮捕された。反メディチ派と目されたからである。しかしすぐに釈放されて、以後フィレンツェ郊外の田園に隠居生活することを許された。それ以後、マキャヴェリは公職につくことなく、余生を著述活動に費やした。

1513年に書かれた「君主論」は、メディチ家との融和を目的にして書かれたとされている。彼はこの著作によって、メディチ家の当主ロレンツォ二世に取り入ろうとしたのだが、成功することがなかった。

「君主論」 Il Principe は、自分の力によって君主になりあがったものが、いかに権力を維持すべきかについて説いたものである。世襲の君主には彼を支える政治的基盤があり、それをたくみに操作することによって、権力は円滑に遂行されるに対して、新たに君主になったものは、自分で権力を維持していかねばならない。マキャヴェリは、フィレンツェの君主として返り咲いたメディチ家のロレンツォに対して、こうした君主としての操縦術を提供するのだという名目のもとに、この本をロレンツォに捧げている。

マキャヴェリは権力の操縦術を、具体的な政治家の実践を材料にしながら、経験的に導き出している。つまり経験科学としての、政治学の成立である。

マキャヴェリが材料に選んだのはチェザーレ・ボルジアであった。チェザーレは権謀術数の権化のような人物で、権力のためには裏切りや虐殺など非人道的な行為も辞さなかったが、その行動様式には、権力の維持という点で合理的なものが多い。マキャヴェリはこの合理的な部分を賞賛したのである。

君主というものは、信義を守るときにも、ただ単に信義にこだわるのではなく、そうすることが自分の利益になる場合に信義を重んじればよい。しかも心からそうする必要はなく、重んじている振りをするだけでよい。要するに演技者に徹して猫をかぶっていれば良いのである。また君主は民衆の宗教を尊重する必要があるが、自分で宗教に帰依する必要はなく、宗教的であると見せかけるだけでよい。

万事がこのような調子で説かれている。したがってこの本を読む人びとは、時に嫌悪感を抱くかもしれない。

だがこれはあくまでも、権力を維持するための方策に過ぎないのだ。マキャヴェリがチェザーレ・ボルジアを尊重するのは、彼のやり方がイタリアの利益にとって有益な範囲にある限りであって、チェザーレの政治思想そのものにかぶれていたわけではない。

マキャヴェリは基本的には共和主義者だったと先に書いたが、マキャヴェリはその共和主義者としての自分の政治的信念を別のところで吐露している。「君主論」とほぼ同じ時期に書かれた「ローマ史論」 Discorsi sopra la prima deca di Tito Livio (リヴィウス論考とも訳される)である。

「ローマ史論」を貫いている基本思想は、政治における「自由」の概念である。政治の究極の目的は、国民に自由を保障することにある、そうマキャヴェリは考えていたのである。この自由という概念は、マキャヴェリ以前の中世的な政治思想にはなかったものだった。

国民の自由を保障するのに相応しい政体というものがあるはずだ。これをマキャヴェリは、君主や貴族、民衆のすべてが国政に参加し、しかも相互の勢力の間に牽制とバランスが成り立っているようなシステムに求めた。一種の共和政体である。

マキャヴェリはこの思想を、一部はギリシャやローマの共和制の研究の中から導き出してきた。彼はそれら古代の共和政治の中に、市民の自由とそれを保障するための勢力のバランスといったものを嗅ぎ取ったのだった。

市民の自由と権力のバランスは、近代政治思想の二大テーゼである。それは古代の都市国家に胚胎していたといえるが、ルネサンス人のマキャヴェリが改めて発掘し、近代へと受け継いだのだった。この意味で彼は自由主義的政治思想の中興の祖であり、近代政治思想にとっては直接の先駆者ともなりえている。

このことを脇へおいていえば、マキャヴェリが政治に託した当面の目標は、イタリアの国家的な統一であった。「君主論」はイタリアを野蛮人、すなわちフランスとスペインの支配から開放するようにとの、訴えかけで終っている。チェザーレ・ボルジアは統治者としては老練であったが、イタリア統一の熱意に欠けた部分においては、批判の対象とされた。またローマ教会は、その腐敗によってよりも、イタリア統一への妨げになっているということにおいて、厳しい指弾の対象とされた。

マキャヴェリのこの願いは、実現の見通しがないばかりか、イタリアはますます惨めになっていった。マキャヴェリが死んだ年には、ローマがカール五世の軍隊によって蹂躙され、イタリア人は民族としての誇りも失ってしまったのである。


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