トーマス・モアのユートピア

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トーマス・モア Thomas More (1478-1535) は、「ユートピア」の著者として広く知られている。この本は人間にとって究極の世界といえる「理想郷」を描き出したものだ。テーマからして時代を超越しており、ルネサンスのイメージとは直接結びつかないようにも思えるが、しかしルネサンスの時代であったからこそ生まれた書物ともいえる。

トーマス・モアがこの書物の中で描いたものは、プラトンが夢見た理想国家を下敷きにしている。モア自身はその理想国家を「ユートピア」つまり「どこにもない土地」と名付けた。プラトンの思い描いた原始共産制や能力に応じた労働などの思想をこの世で実現したとすれば、こんな国になるだろうと解説しているのである。

だからこの本は古代ギリシャ熱とくにプラトンの影響が俄かに高まったルネサンス時代にして始めて生まれえた書物なのである。

トーマス・モアがこの書物の中で述べていることは、殆どが古代に語られたことであり、モアの創造にかかる部分は少ない。そのことを以て、トーマス・モアの思想史上の位置づけを軽んずる向きもある。しかし同時代とその後の社会思想に及ぼした影響を考えれば、もう少し重く見られてもよいのではないか。

この書物はまた、プラトンのような堅苦しさに毒されてはいない。かえって軽妙洒脱な雰囲気に満ちている。体裁はプラトンの対話編を倣い、ユートピアから戻ってきた男とイギリス人が会話を進めるという形をとっており、その話のやりとりには、エラスムスが「痴愚神礼賛」のなかで復活させた、ヨーロッパの笑いの文学の伝統が息づいてもいる。読んで楽しい書物なのである。

ここで少々ユートピアのことを紹介すると、それは次のような国である。

まずそこでは、プラトンの共和国と同様にすべてのものが共有されている。私有財産のあるところでは、公共の目的は達成されがたいからである。ただプラトンと違い、結婚や家族にまで、共産制が及ぶことはない。むしろ結婚に際して純潔は厳しく要求される。女は処女でなければならず、男は童貞でなければならない。彼らは結婚に先立って互いの裸を確認する権利を持っている。

共和国の街はどこも、全く同じデザインの家で構成されている。人々はその家を十年ごとに住み替える。こうすることによって、私有財産への誘惑を緩和するのである。

また人びとは一日6時間の労働をする。その訳は、この国にはイギリスのように、司祭や金持ち、召使や乞食といった無用なものが存在しないので、それらのものを養うための特別の余剰やぜいたく品が必要でないからだ。

統治者は学者の中から選ばれる。国民の中には特別に学問に適したものがいるものだが、国は彼らに対して労働を免除する代わりに、国に対して有用な行為をなすことを求める。統治もそのひとつなのだ。

この国には奴隷もいる。奴隷は凶悪な罪を犯して処罰を受けた人々、あるいは外国で罪を犯して逃れてきた人々である。トーマス・モアが奴隷を容認したのは、プラトンとアリスとテレスの説にあまりにも共感したからであろうか。

他の国と貿易する点では、陶淵明の桃源郷のような閉ざされた世界ではない。貿易は主に鉄の獲得をめぐってなされる。この国では鉄を産出しないので、それを外国から買い求めて、戦争のために必要な武器をこしらえるのである。

戦争は3つの目的のためになされる。一つ目は、外国から侵略された場合に、自国の領土を守るため。二つ目は、同盟国を第三国の侵略から守るため。三つ目は、圧制にあえぐ外国の国民を圧制者から解放するため。今日の国際政治の常識とされるものと、非常に似通っているではないか。

トーマス・モアがこの国の長所として力説しているのは、宗教上の寛容についてである。これは宗教的な不寛容が支配した当時の風潮に対して、トーマス・モアが正面から意義を唱えた部分である。

もしこんな国が存在しているとすれば、そこに暮らす人々は本当に幸福といえるだろうか。この点についてトーマス・モアは価値判断を下していない。少なくとも現代人の感覚からすれば、それは非常に退屈な生活を強いられるもののように思える。なぜならそこには、人間を変革に向かって駆り立てる、生き方の多様性が欠けているからだ。

さてトーマス・モア自身はどんな生涯を送ったのだろうか。彼は弁護士の子どもとして生まれたので、自分も法律家の道を歩んだ。オックスフォード大学に入ったときは、ギリシャ語を学びたかったようだが、これは大学当局からも反発を受けて実現しなかった。だがその志は、彼に人文主義者としての相貌を与えたのである。

彼はヘンリー7世の時代には何かと弾圧されたが、ヘンリー8世が即位するとその愛顧を受けた。国王の引き立てで、法律家としては頂点といえる大法官にまで上り詰めたのだった。だがヘンリー8世が、妻のキャサリンと離婚して、アン・ブリアンと結婚しようとしたとき、それに反対した。それがもとで、トーマス・モアは国家反逆罪に問われ、斬首の刑に処せられてしまった。

このことは、トーマス・モアの廉直な性格が災いしたのだとされている。彼は当時法律家として当たり前だった賄賂を一切受け取らなかった。彼は大法官に在職中も、正式な年収以外の収入は一切なかったのである。こんな性格のため、カトリックの教義にこだわって国王の離婚に正面から対立し、自ら不幸を招いたのである。

この点でトーマス・モアは、同時代人で仲のよい友人であったエラスムスとは異なっていた。エラスムスはルターの宗教改革に理解を示したり、進歩的な面ももちろん持っていたが、ことが自分の一身にかかわると、身の安全を信義に優先した。エラスムスのような抜け目のない生き方を、トーマス・モアはできなかったのである。


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    このページは、が2008年6月13日 20:17に書いたブログ記事です。

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