森鴎外「北條霞亭」:文化文政時代の精神を描く

| コメント(0) | トラックバック(0)

「北條霞亭」は森鴎外史伝三部作の最後の作品であるとともに、彼の著作活動の絶筆ともなった作品である。大正五年十月に新聞紙上に連載を開始して以来、長い中断を置いて、大正十年雑誌「あららぎ」誌上で連載を終了するまで、実に五年余の歳月を要している。しかしてその八ヵ月後に鴎外は世を去るのである。

この作品の完結にかくも長い期間を要したのは、世間がこの作品を喜ばなかったからである。最初この作品の連載を載せた新聞(東京日日新聞)は、開始後二か月で連載を中止した。本編165回分のうち57回分を終えたところだった。1年以上の中断を経て今度は雑誌(帝国文学)に続編を発表したが、これも遅々として進まず、大正9年1月には雑誌社そのものが廃刊してしまう。最後に連載を引き受けた「あららぎ」は創刊したばかりで、創始者の齋藤茂吉は鴎外に尊敬の念を抱いていたから、いわばご祝儀のようなつもりだったのだろう。連載中作品そのものが世間の話題を呼ぶことは殆どなかった。

このように、鴎外存命中はまったく注目されることのなかった「北條霞亭」であるが、鴎外自身はこの作品に、満を持して取り組んだ。彼にとっては、一連の史伝、歴史小説を書き継いできたその先に、自身の史観、文学観を集大成したものであるべき作品だったのである。

鴎外が北條霞亭を取り上げに至ったきっかけは、「伊沢蘭軒」が「渋江抽斎」の落とし子であったように、蘭軒伝を執筆する過程で浮かび上がってきた。

鴎外は蘭軒とその師菅茶山を巡る人々について、先人の文を参照し自らも資料を集めながら記しているうちに、そこに展開している人間像と彼らが織りなす文化の世界に強い感銘を受けるに至った。

徳川時代に形成された文化は、明治以降前時代的として貶められ、とかく注目を浴びることもなくなってしまった。しかし公平にそれを見れば、この文化を担った人々には、民族の先駆者として学ぶべきものが多い。今日我々日本人がこうしてあるのも、彼らの業績の積み重ねの上に立っていればこそである。一民族は過去との断絶の上に忽然として文明を築き上げられるものではない。

鴎外はこのような感慨を持って、文化文政時代の文人たちを掘り起こしていった。そしてそこに、狩谷棭斎、亀田鵬斎、松崎慊堂といった人物を深く知るに及び、彼らに親愛の念を抱くようになった。鴎外はこれらの人々が、今日の日本文化の基層とでもいうべきものを築き、彼らの地味ではあるが確実な業績があったからこそ、今日の日本の文化も層の厚いものとして、栄えることができているのだ。こう考えたのではないか。

そこで鴎外は、文化文政時代を生きた先人たちの業績をパノラマ的に描き出すことによって、日本文化の基層ともいうべきものをあぶりだそうとする欲求にとらわれたのではないか。そう筆者などは感ずるのである。

鴎外は彼らを代表する人物として取り上げたのは、北条霞亭であった。何故北條霞亭だったのかについては、鴎外自身次のように語っている。

「わたくしは伊沢蘭軒を伝するに当って、筆を行る間に料らずも北條霞亭に逢着した。・・・霞亭の事跡は頼山陽の墓碑銘によって世に知られてゐる。文中わたくしに興味を覚えしめたのは、主として霞亭の嵯峨生活である。霞亭は学成りて未だ仕えざる三十二歳の時、弟碧山一人を挈して嵯峨に棲み、其状隠逸伝中の人に似てゐた。わたくしはかつて大学を出でた頃、かくの如き夢の胸裏に往来したことがある。しかしわたくしはその事の理想として懐くべくして、行実に現すべからざるを思って、これを致す道を講ずるにだに及ばずして罷んだ。彼霞亭とは何者ぞ。敢てこれを為した。霞亭は如何にしてこれを能くしたのであらうか。是がわたくしの曽て提起した問である。」

鴎外が、菅茶山を中心にしてその周囲に綺羅星のように群れる人材のうちからまず北條霞亭に着目したのは、その隠逸伝中の人のような生き方に、鴎外自身が青年時代に夢見てなしえなかった理想の生き方を見出したのだというのである。その生き方が鴎外の胸をうち、彼の強い共感をとらえた。鴎外はこの人物を掘り下げていくことによって、自分がかつて夢見た理想がこの人物の中でどのように花開いたか、それを追跡したかった。

だが、石川淳が指摘するように、北條霞亭という人物は、鴎外が全霊を傾けるに足るほど優れた人材ではなかったようだ。鴎外は霞亭の事跡を追っていくうちに、不幸なことに、この人物は当初自分が抱いたあの大いなる敬愛に値しないのではないかと思うようにもなった。この作品が度々長い間中断したのには、そうした鴎外の思惑違いが多少は影響しているとも思われる。

霞亭が鴎外を失望させた原因はいくつも挙げられる。そのひとつに、霞亭は嵯峨生活の後に、菅茶山に見込まれてその姪を妻とし、茶山の私塾の後継者と目された。このことについて、霞亭はあまり喜ばなかった。福山という一地方の田舎教師で終ることに気が進まなかったのである。

四十を過ぎると霞亭は福山藩に召され、藩の学監として江戸詰めを命じられた。これは常識的にみれば出世であり、事実これを機会に霞亭の名は文人たちの間で高まっていくのであるが、自身は表向きこれを迷惑だなどと、ポーズをとっている。しかしその実、内心は得意なものがあったのである。

鴎外は霞亭が時折見せるこうした態度に、斜に構えた者のいやらしさのようなものを感じ、その生き方にも疑問を感じないではいられなかった節がある。

一方、茶山のほうは、鴎外の敬愛の対象となり続けた。この老人は後継者と見込んだ霞亭を横取りされ、身辺にわびしい風が吹き寄せるのを感じながら、最後まで人間的な誠実さを失わないでいた。

霞亭は結局、学問上の大志を形に残しえぬまま、44歳で死んだ。その嵯峨生活に青年らしい大志を感じ取り、それがやがて形となって結実することを期待した鴎外は、裏切られた気持になった。彼の霞亭への思い入れは空振りに終った。

だが霞亭を題材にして文化文政時代を描いた鴎外は、主人公の霞亭を超えて、時代を生きた人びとを情熱を以て生き生きと描いた。

鴎外は、霞亭の周辺にうずまく時代の精神を把握しようとしたとき、そこには豊かな水脈が滾々と流れ、その水脈の上に緑したたるオアシスが花開いていた、そのように感じたのではないか。

そのことだけでもこの作品の執筆は、鴎外にとって意味ある作業であったといえそうだ。

鴎外は霞亭伝の擱筆後ほどなくして病に倒れて死ぬのであるが、天がもうしばらく彼に生の余裕を与えてくれていたなら、霞亭の周辺に綺羅星のように輝く巨人たちにも筆を伸ばし、おそらく文化文政期という、日本の文化史上類希な時代の全体像を、パノラマ的に描き出す作業に取り掛かったであろうと、筆者などは思うのである。


関連リンク: 日本文学覚書鴎外の史伝三部作

  • 森鴎外晩年の歴史小説




  • ≪ 「伊沢蘭軒」に見る鴎外の歴史意識 | 日本文学覚書 | 森鴎外の独逸日記 ≫

    トラックバック(0)

    トラックバックURL: http://blog.hix05.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/876

    コメントする



    アーカイブ

    Powered by Movable Type 4.24-ja

    本日
    昨日

    この記事について

    このページは、が2008年7月 4日 21:29に書いたブログ記事です。

    ひとつ前のブログ記事は「カルヴィニズムとメランコリー」です。

    次のブログ記事は「能「蟻通」:紀貫之と蟻通明神」です。

    最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。