森鴎外の独逸日記

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森鴎外は明治15年2月に起稿した「北遊日乗」に始まり死の年(大正7年11月)まで書き続けた「委蛇録」に至るまで、生涯の大半について日記をつけていた。そのうちドイツ留学中及びその前後に書いたものが四種ある。ドイツへと向かう船旅の様子を記録した「航西日乗」、ドイツ留学中の生活を記録した「独逸日記」、ドイツでの生活のうちベルリンでの最後の日々を記録した「隊務日記」、そして日本へ帰る船旅を記録した「還東日乗」である。

「独逸日記」はベルリンに到着した翌日の明治17年10月12日に書き始められ、明治21年5月14日の記事を以て終っている。ドイツ留学中の大部分をカバーしているわけである。鴎外は最初これを漢文で記し「在徳記」と題していた。(徳とは漢語でドイツを意味する。)

帰国後他の三部については漢文のまま発表したが、どういうわけか鴎外はドイツでの日記の本体をなすこの「独逸日記」については、生前ついに発表することがなかった。だが発表する意思はあったらしい。それも原文の漢文のままではなく、日本文に置き換えた上で発表するつもりだったようである。今日残されているのは、この日本文に書き下されたもののみであり、原文のほうは永久に失われた。

鴎外のドイツでの生活は主に四つの部分に分けられる。明治17年10月22日から同18年10月11日までのライプチッヒ時代、18年10月12日から19年3月7日までのドレスデン時代、20年4月15日までのミュンヘン大学時代、そして最後のベルリンでの生活である。

これは鴎外がベルリン到着早々相談した上官の橋本軍医監の指示に従い、衛生学の研究を深めるために、まずライプチッヒ大学のホフマン教授の指導を受け、ついでミュンヘン大学に学び、最後はベルリン大学でローベルト・コッホの指導を受けるというメニューに忠実に従った結果である。途中ドレスデンで数ヶ月過ごしているのは、ザクセン軍団の軍医講習に特別参加を許されたからであった。

鴎外はまた、在ドイツ公使青木某にもドイツでの生活のコツを聞いているが、こちらは勉強も大事だが、それより欧州人の生活ぶりや文化をよく観察するようにとの忠告をくれた。

鴎外はこの二人の忠告に良く従って、勉強に精を出す傍ら、ドイツでの生活を思う存分楽しんだようである。

明治初期には多くの日本人が西欧に留学したり旅行したりしているが、そのなかで成島柳北を除けば鴎外ほど西欧に溶け込み、その生活を楽しんだ者はなかった。彼はドイツ人社会に速やかに溶け込み、彼らと親しく交わる一方、劇場に足を運んだり、パーティを楽しんだりしている。この点、明治33年からイギリスに留学した夏目漱石が、うつ状態に悩まされて留学生活を楽しむどころでなかったのとは、大きな違いがある。

鴎外が気を許して最も楽しんだのはミュンヘン時代であった。ドイツの地域の中でもミュンヘンは一種明るい開放感があったのだろう。鴎外はその空気を楽しんでいる。

ミュンヘンについて間もない3月8日の記事には、カーニバルの行列を見、また仮面舞踏会に参加する光景が描かれている。

「八日。・・・此日街上を見るに、仮面を戴き、奇怪なる装をなしたる男女、絡繹織るが如し。蓋し一月七日より今月九日 Aschermittwoch に至る間はいわゆる謝肉祭 Carneval なり。「カルネ、ワレ」は伊太利の語、肉よりさらばといふ義なり。我旧時の盆踊に伯仲す。・・・後中央会堂に至る。仮面舞盛を極む。余もまた大鼻の仮面を購ひ、被りて場に臨む。一少女の白地に縁紋ある衣装を着、黒き仮面を蒙りたるありて余に舞踏を勧む。余の曰く。余は外国人なり。舞踏すること能はず。女の曰く。然らば請ふ来りて供に一杯を傾けんことをと。余女を拉いて一卓に就き、酒を呼びて興を尽くす。帰途女を導いて其家の戸外に至る。」

ゆきずりの少女とかかるアヴァンチュールを楽しむなど、隅に置けないところだ。だが鴎外は、ドイツ滞在中に女との間で交渉があったことは、外には全く記していない。柳北がパリで娼婦を買ったことを正直に告白しているのに比較すれば、歯痒いところだ。鴎外が都合の悪いことを隠しているのか、あるいは額面どおり慎重居士で過ごしたのか、その辺のところは「独逸日記」からは伝わってこない。だが帰国後ドイツから女が追いかけてきた事実を考えると、彼が謹厳な日々を過ごして終ったとは、とても思えないのである。

ミュンヘン時代には鴎外にとって重要な出来事が二つ起こった。ひとつはバイエルン国王ルードヴィッヒ二世の入水自殺であり、もうひとつはナウマンとの論争であった。

ルードヴィッヒ二世は歴史上個性のある君主として知られている。作曲家ワーグナーの熱心なパトロンであり、ワーグナーの数々の樂曲はこの王に捧げられた。またノイシュヴァンシュタイン城をはじめ、豪華な居城を次々と造営し、そのために国家の財政を破綻に導いたとされる。しかし彼の残した遺産は今でも、バイエルンの貴重な観光資源となっているのである。

鴎外はこの国王の自殺を背景にして小説「うたかたの記」を書き上げるが、「独逸日記」の中ではもっぱら、王がその侍医グッデンを道連れに死んだということが彼の関心を呼んだ。鴎外は同じく医者としての立場から、グッデンに同情している。グッデンは入水した王を助けあげようとして必死の努力をするのであるが、たくましい王の腕力に引きずられて、一緒に水死したのである。

ナウマンは東京帝国大学の初代地学教授として、明治8年から18年間日本にいた人物である。この男がどういうわけか日本嫌いになったらしく、或る時講演の中で日本をけなす発言をした。鴎外はその場に居合わせて、非常に驚いたのだった。

それは明治19年3月6日に行われたドレスデン地学教会での講演であった。そのなかでナウマンは、日本を誹謗するような言辞を吐き、鴎外を怒らせた。鴎外の日記には次のとおりその模様が記されている。

「日本の地勢風俗政治技芸を説く。其間不穏の言少なからず。例えば曰く。諸君よ。日本の開明の域に進む状あるを見て、日本人其開明の度欧州人に劣れるを知り、自ら憤激して進取の気象を呈はしたる物と思ひ玉ふな。是れ外人の為に逼迫せられて、止むことを得ず、此状を成せるなりと。」

これに対して鴎外はその場で反撃した。ナウマンは仏教は女を軽視するから信じられないといったのをとらえ、仏も女人成仏を教えているから、あなたのいうことは当らないといったのである。

鴎外はナウマンに対してよほど立腹したらしく、ミュンヘンにいた明治19年の暮に、ナウマンに対して新聞紙上で公開論争を挑んだ。その結果がどうなったかについては、はっきりとしたことはいえぬが、ただ日本人森鴎外の気迫だけは伝わってくるのである。


関連リンク: 日本文学覚書

  • 森鴎外晩年の歴史小説

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