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カルヴィニズムとメランコリー


宗教改革の結果生まれてきた新教の各派は、反カトリックという旗印のほかは、あまり共通したものを持たなかった。まして、統一した宗教組織を形成しなかった。ドイツを中心にした北ヨーロッパでは主にルター派が、スイスではツヴィングリやカルヴァンの教義が、そしてイギリスでは国教会がそれぞれ並び立ち、そのほかにも再洗礼派などの小さな宗教運動がばらばらに分立するといった具合だった。

カトリックのほうがスペインを中心とした反宗教改革の運動を経て巻き返しを図り、強固な団結を固め直したのとは対照的であった。

それでも新教各派には、一つだけ共通した要素があった。それは個人の内面の重視であり、個人を直接神に向き合わせる態度であった。教派によって多少のニュアンスの差はあるが、個人は今までのように教会という組織を通じて神の栄光にあずかるのではなく、個人としての資格において神と直面しなければならない。神の目には個人の内面はことごとく明らかである。個人は自分の意思によってではなく、神の意思によって救われるかどうかがきまる。個人の救いは個人と神との直接的な関係から導き出される。だから個人は直接神に向きあい、信仰を捧げることによって、神の恩寵を得るように努めねばならない。これがその共通要素の中身といえる考えであった。

この個人の内面の重視という考えは、近代社会の形成に決定的な影響を及ぼした。近代社会を前近代社会と分けるメルクマールは、自立した個人が大量に登場することにある。近代社会は別名で「契約社会」と呼ばれるように、自由な契約を支える自由で自立した個人を前提にしている。その自由で自立した個人を生み出すにあたって、新教の教義は有利に働いたのである。マックス・ウェーバーが「プロテスタントの倫理と資本主義の精神」の中であぶりだしたのは、この自立した個人の登場が、いかに契約社会たる資本主義社会を成り立たせたか、その一点に集約できる。

ジャン・カルヴァン Jean Calvin (1509-1564) の教義は、新教各派の中でも、この自立した個人ということについて、最も徹底した考えを持っていた。

カルヴィニズムの要点は「予定説」と呼ばれるものにある。人間は自分自身の努力によって救われることはない。いくら善行を重ねても救われることとは係わりがない。人間のいかなる行為も神の意思に影響を及ぼすことはない。人間の救いは神の無差別の選択によって決まるからである。救われるべき人間は、神によってあらかじめ予定されている、これが予定説のいうところだ。

しかし救済にあすかれるかどうか不明であり、しかも自分の行為が救済にとって無意味であるとすれば、人間は自分の救済に自信が持てなくなり、無力感に陥るだけではないか。

この疑問に対して、カルヴィニズムは次のように答えた。全能の神が、信仰深くしかも善行に慎むような人間を救わずにいないわけがない。だから無力感を持たずに、信仰に励むが良い。許されないのは、自分の信仰や善行と引き換えに、救済をねだるその不遜な態度なのだと。

カルヴィニズムのこの思想は、新教各派の中でも最も厳しい態度を個人に課すものだった。個人はただただ神による救済を信じて、信仰生活を送り、勤労に励むしか生きる道がなかった。

勤労の勧めについては、ルターもそれを主張していたが、カルヴィニズムは一層徹底して勤勉の美徳を説いた。だからマックス・ウェーバーがいうようなプロテスタントの倫理精神を最も強く体現していたのは、カルヴィニズムだったのである。

カルヴィニズムはまた、近代的な自己意識を身につけるようになりつつあった個人に、もう一つの精神的影響をもたらした。メランコリーがそれである。

メランコリーは、今日「うつ」と呼ばれる心の病である。病気そのものとしては古代から知られていた。ヒポクラテスはそれを黒胆汁と関連つけて説明していた。(メランコリーとは黒胆汁質の意である)突然塞ぎの虫に襲われたように無気力になり、なにも出来ないほど心が塞ぎこむ病気だと思念されてきた。

その心の病が、17世紀になってイギリスを中心に目だって増えだした。それはカルヴァンの生きていた頃より半世紀も過ぎた時代であったが、カルヴィニズムの思想が社会の各層に広がり、人々の意識を呪縛するようになったことの結果だったとも考えられる。

メランコリーの流行をカルヴィニズムの浸透と関連つけて論じたものにバーバラ・エーレンライヒの説がある。彼女はカルヴィニズムの教えに従って、神と直接向き合うよう余儀なくされた人々が、従来のように共同体による庇護も期待できず、自分で自分を支えなければならなくなったときに、その重みに耐え切れない人々がメランコリーに陥ったのだと解釈した。

だからメランコリーは近代社会に特徴的な病気なのだとエーレンライヒはいう。近代社会に生きる人々は、互いに孤立した人間関係の中で、なおも他者の目を意識しながら生きていかなければならない。その他者の目やそれが期待する人間としてのあり方の重みに耐えられないときに、人は心の病に逃避するのだと彼女はいう。

カルヴィニズムは、人間の個人としての生き方に徹底した自立性を求めたことで、一方では契約社会を背負う自由で自立的な人間を生み出し、資本主義社会を形作る原動力を用意した一方、それから落ちこぼれた人々には、メランコリーという逃げ道を用意したのだった。


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