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夏目漱石のロンドン滞在日記


夏目漱石は33歳の年(明治33年)にイギリス留学を命じられ、その年の10月から明治35年の12月まで、2年あまりの間ロンドンに滞在した。その時の事情を漱石は日記のようなメモに残しているが、あまり組織立ったものではなく、ほんの備忘録程度のものなので、読んで面白いものではない。しかもその記録は明治34年の11月で途切れており、その後の事情については何の記録もない。漱石はロンドン留学の後半はひどいノイローゼに悩まされていたので、日記をつける気にもならなかったのだろう。

これを森鴎外のドイツ留学記と比較すると、両者の間には歴然たる差がある。鴎外は始めからこの留学の記録を発表する意思を持っていたらしく、毎日の見聞を漢文を以て整然と記録した。そしてその一部については、帰国後直ちに発表している。本体ともいうべき「独逸日記」については、そのままの形で発表するのをためらい、漢文で記した原文を和文に直して発表に備えたが、生前にはついに発表することがなかった。

しかし鴎外の日記は文学者が発表を前提に書いたものだけに、読んで実に面白いのである。鴎外はドイツ到着後いち早く現地の人々に溶け込み、毎日を楽しく過ごしている。その様子が日記からはひしひしと伝わってくる。

これに対して漱石の日記は、自分自身のためにだけ書いたメモのようなもので、無味乾燥に近いといってよく、読んでもほとんど感興を起こさせない代物である。時たま、面白いと感じさせるところがあれば、それは外国人に対して漱石が感じた人種的なコンプレックスとか、漱石の苛立ちとかが伝わってくる部分であって、溌剌とした気分とは縁遠い。

鴎外と漱石、この両者の日記を支配しているムードの相違は、両者がそれぞれ留学したときの事情の相違にももとづいているであろう。鴎外がドイツに留学したのは23歳のときであり、自分の人生に対して明るい未来を感じていた、しかもその時期は明治の10年代であり、日本がまだ国家として若々しさに満ちていた時代であった。こうした公私にわたる環境条件が鴎外の日記にも反映していると思えるのだ。

それに対して漱石が留学したのは33歳という中年前期のことであり、漱石はすでに妻帯して一家を構えていた。また日本の国も日清戦争を経て国威が高揚し、なんでもかんでも外国から学ぼうという草創期の若々しさからは脱却しかけていた。

これに鴎外の人見知りしない積極的な性格に対して、引っ込み思案な漱石の性格を重ね合わせれば、彼の日記が鴎外のように面白くならなかった理由の一端が納得できるのかもしれない。

漱石はおそらくこの留学旅行のために用意したのであろう手帳に、イギリスに向けて横浜の港から旅立った日のことを書き入れることで、ロンドン滞在記を開始した。時に明治33年9月8日のことである。その日の記事は、次のとおりである。

「八日 横浜発遠州灘にて船少しく揺ぐ晩餐を喫する能はず」

たったこれだけである。とてもこれから大航海をするのだという意気込みは伝わってこない。

漱石を乗せた船は途中、上海、香港、シンガポール、コロンボに立ち寄り、スエズ運河を通過して、10月18日にナポリに到着する。この船の中で漱石は、周りが西洋人ばかりなのに辟易する一方、アジアの港で出合ったアジア人たちには変な優越感を示している。この優越感は成島柳北が感じたものと根を同じくしている。鴎外には、少なくとも表向きは見られなかったものだ。

漱石はさらにジェノヴァから列車に乗ってパリに至り、そこで万国博覧会を何回か見物している。しかしこの展覧会で、文明の華を目にした印象については殆ど語るところがない。

ロンドンに到着したときの記事は次のようである。

「10月28日 巴里を発し倫敦に至る船中風多して苦し晩に倫敦に着す」

これも実にあっけない記述である。

ロンドンに落ち着いた漱石は、下宿を探し、英語の家庭教師としてクレイグという人物を雇った。だが日常の生活について語るところが少ないのは依然である。途中英語でしたためた断片を数編さしはさんでいるが、そこにはおせっかいなイギリス女性にうんざりしたような様子が描かれている。

ロンドンの街が漱石に最も強く印象付けたことといえば、それは空気の汚さであった。到着翌年の正月に漱石はそのことを三日続けて次のように書いている。

「1月3日 倫敦の街にて霧ある日太陽を見よ黒赤くして血の如し、鳶色の地に血を以て染め抜きたる太陽は此地にあらずば見る能はざらん
 1月4日 倫敦の街を散歩して試みに痰を吐きて見よ真黒なる塊りの出るに驚くべし何百万の市民は此煤煙と此塵埃を吸収して毎日彼等の肺臓を染めつつあるなり我ながら鼻をかみ痰するときは気の引けるほど気味悪きなり
 1月5日 此煤煙中に住む人間が何故美しきかや解し難し思ふに全く気候の為ならん太陽の光薄き為ならん」

これはかつてのロンドン名物であったスモッグに、漱石も悩まされたことの貴重な証言だ。19世紀末のロンドンは、街中から排出される煤煙のために空は常に黒く覆われ、そこに霧が出ると膨大なスモッグが発生し、咫尺を弁じないほど視界をさえぎった。

こんな街にすむイギリスの女性が何故美しいのか漱石は驚いている。そしてそれは太陽の光線が弱いために、彼らの肌が薄いからなのだろうと納得している。

これに対比して、日本人の肌が黄色いことに、漱石は改めて気づかされる。1月5日の日記には続いて、あの有名な箇所が出てくる。

「往来に向ふから背の低き妙なきたない奴が来たと思へば我姿の鏡にうつりしなり、我々の黄なるは当地に来て始めて成程と合点するなり」

気位が高く心のうちではイギリス人に負けないと自負していた漱石も、己の姿ばかりは、イギリス人に比較しようもないと思ったのだろうか、この文章には彼のやりきれない気持ちが、自嘲のベールをまとって述べられている。


関連リンク: 日本文学覚書

  • 森鴎外晩年の歴史小説

  • 鴎外の史伝三部作





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