西洋哲学におけるデカルトの位置:意識の呪縛

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西洋の近代哲学はルネ・デカルト René Descartes に始まる。そういえる理由はいくつかある。まず第一に、哲学を思弁ではなく、経験に立脚させたことである。西洋の近代哲学は、経験論の潮流にせよ、観念論の潮流にせよ、人間の確固とした経験に裏付けられていない形而上学的な思弁を排除する傾向を持つが、そうした態度はデカルトの方法的な態度に淵源する。

第二に、哲学する人間をひとりの個人として発見したのがデカルトだったということである。デカルトの有名な命題「我思う、故に我あり」は、哲学を人間の意識の上に基礎付けるものとして解釈されているが、この意識の担い手としての個人は、哲学の主体としてはデカルト以前には存在しなかったものである。しかしそれはデカルト以後においては、あらゆる哲学の端緒となった。この意味で、デカルトは近代哲学の出発点を定めたのだといえる。

第三に、17世紀から20世紀にかけて、西洋哲学を支配してきた知的枠組は認識論であったといえるが、この近代的認識論はデカルトに始まる。デカルト自身は、あの有名な方法的懐疑を用いて、哲学の基礎を人間の認識作用に定めた上で、世界を認識する主体と、その認識の随伴者としての存在とに分裂させた。

意識と存在との間に横たわるこの溝は、近代哲学にとって、越えるべくして容易には越えることのできない、巨大な課題となった。デカルト以後のあらゆる哲学者たちは、この溝を埋めるために格闘してきたともいえるのである。これを筆者は、西洋近代哲学のテーゼは「意識の呪縛」との戦いだったと総括している。

第一の点である経験科学的な態度についていえば、デカルトは、自分自身が数学や物理学の熱心な研究者であり、ガリレオの天動説を深く理解していたことからわかるとおり、科学的で合理的な思考方をに若い頃から身に着けていた。彼は人間や哲学の研究においても、そうした科学的・合理的な方法を持ち込んだのである。

中世からルネサンスにかけてヨーロッパの知的風土を支配していたものは、ある種の形而上学だった。それは世界の根源から―それが神であっても、そのほかの始原であってもー出発して、この世のあらゆる現象を説明しようとした。そこには常に、「始原ありき」といった絶対的なものへの希求が認められたのである。

だがデカルトにとっては、そのような始原は存在しなかった。彼は身近にある絶対確実なものから出発して、そこから段階を追って推論を重ね、明証性を持つさまざまなものについて証明していこうとした。

今日でこそ、このような態度は、科学の分野ではもとより、哲学においても当然のこととされているが、歴史上はじめて、それを首尾一貫して遂行したのはデカルトだったのである。

第二の、意識の担い手としての個人の発見という点については、デカルトの生きていた時代との関連において考える必要がある。ルターによる宗教改革以来、人びとは教会を通じてではなく、直接神と向き合うという宗教的態度が支配的になってきていた。デカルトの生きた17世紀前半は特にそうした風潮が高まっていた時代である。

個人が直接神と向き合うとはどういうことか。それは少なくとも、教会や神父などの他者を介せず、個人が自分自身の信仰にもとづいて神と向き合い、神と対話し、神の声を自分自身で受け止めた上で、それを自分の良心にもとづいて実行することであった。

こうした宗教的態度にあっては、個人は何事も自分自身の良心と責任とにもとづいて実践することを期待される。自分の良心によってフィルタリングされないことは、何事も正統性を持たないのである。

デカルトの、意識の担い手としての個人とは、こうした新しい宗教意識の中から生まれてきたのだといえる。

デカルトはこの新しい個人を、宗教の場面だけではなく、あらゆる領域において、活躍させた。この個人は、神との関係においては、教会のいうことではなく、自分自身の良心に従うことをつらぬき、その良心によって神の存在を了解した。それと同じ態度を以て、この個人は、自分自身の明証性の確信にもとづいて、世界を了解しようとしたのである。

第三の、存在と意識の分裂という点に関しては、デカルトが果たしたことはあまりにも大きかった。デカルト以降の西洋の哲学は、この分裂を埋めるためになされてきた連綿とした営みであり、どんな哲学流派も、この分裂にどうかかわるかによって色分けされてきたに過ぎない。

デカルトの持ち出したこの分裂は「意識の呪縛」といいかえることができる。近代的な認識論はこの呪縛を解きほぐして説明しようとするものであったし、存在論とはこの呪縛に対して見て見ぬ振りをすることであった。また唯物論者たちはこの呪縛を否定することで、逆説的に呪縛の強さを立証して見せたのだった。

21世紀の今日においても、哲学はこの意識の呪縛から開放されていないようである。それは人間をどうみるかについての基本的な枠組が、デカルトの時代と今日とで、あまり変わっていないことの現われなのかもしれない。

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    来年はヒューム生誕300周年ですが、そろそろこの哲学のもう1つの可能性に注目してみても良いのではないでしょうか? それは、

    観念は、「連合もあれば分断もある」というもの。

    「観念は、類似・近接・因果の法則で連合する一方、相違・遠隔・意外の法則で分断する」という命題は至極当たり前な事実である。そして英米系哲学を相対化し、民主主義も自由主義も実験科学も相対化し得る。


    http://blogs.yahoo.co.jp/k_kibino/60972328.html

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