ソルジェニーツィン死す

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旧ソ連の反体制作家として知られるアレクサンドル・ソルジェニーツインが死んだ。89歳だった。「イヴァン・デニーソヴィッチの一日」、「ガン病棟」、「収容所群島」などの作品は、旧ソ連共産主義体制に潜む非人間性を暴いたものだが、同時に人間の普遍的な感情を描き出したものとして、世界の文学史上において特別の位置を占めるに値する。

こんなところから、ソルジェニーツインは20世紀ロシア文学の最高峰として、ロシア文学史上トルストイやドストエフスキーに匹敵する位置づけを付与されるとともに、スターリニズムの犠牲者としては、アンナ・アフマートヴァ、ヨシフ・マンデリシュターム、ボリス・パステルナークなどと比肩されてもいる。

筆者が始めてソルジェニーツインの作品をひもといたのは、学生時代に読んだ「イヴァン・デニーソヴィッチの一日」だ。それを読んだときの強烈な印象は今でも忘れていない。

この不思議な小説の中では、主人公シューコフの収容所での一日が淡々と綴られている。それは非人間的で、やるせなくなるような一日なのだが、そのやるせなさを生きるシューコフの意識には、今の一瞬をどうやって生きていこうかという、実際的な関心しかない。読者はそんなシューコフの意識の流れに知らず知らず引き込まれてしまう。

そして、いきなり衝撃的な結末がくる。シューコフは収容所でのつらい生活に不満を漏らすわけでもなく、今日一日を何とか無事にやり過ごせたことに、ささやかな満足さえ覚えるのである。

ソルジェニーツインの語り口はきわめて穏やかで、滑らかである。だから異常なことを語っているのに、読者はそれがごくありふれた日常的なことなのだと、錯覚しかねない。しかし彼の設定する終末は、その数行の文章で以て、先行するすべての文章に匹敵するような重みがある。

「ガン病棟」では、ガンに対する恐れや回復の希望について延々と語られたあとで、主人公は退院していくが、それは未来の明るさに通じているわけではない。主人公は退院に際して「心臓をわしづかみにされた」ような苦痛を感じさえする。その苦痛は、せっかく仲良くなった看護婦と別れなければならない悲しさかも知れず、あるいはこれから向かっていく未来がぼんやりとしたものでしかないことへの、不安なのかもしれない。作者はそのことを読者の想像力にゆだねて筆をおくのである。

「イヴァン・デニーソヴィッチの一日」はソルジェニーツィン自身の体験から生まれた作品だ。彼は1918年に、新生ソ連の最初の子として生まれ、少年時代と青年時代を通じて社会主義体制に忠実だった。それがあるきっかけで反体制のレッテルを貼られ、監獄と収容所での、長くて苦しい生活を送らざるを得なくされた。この作品の中で展開している世界は、ソルジェニーツィン自身が収容所の中で送った日々をそのまま映し出しているのだ。

ソルジェニーツィンが逮捕されたのは1945年だった。逮捕理由は、彼が友人に宛てて書いた手紙の中で、スターリンを「髭のオヤジ」と表現したからだった。逮捕されるや彼は、監獄と収容所とを転々とさせられた。最後にはカザフスタンのエキバストゥーズという収容所に入れられたが、そこが後に「一日」の舞台となる。

1953年には、ソルジェニーツィンの公式の刑期は終了したにかかわらず、彼は改めて「終身流刑」の判決を下され、コク・テレクという砂漠の町に配流された。だがそこで執筆の自由を得たソルジェニーツィンは、学校で物理学を教えながら、さまざまな作品を書き綴るようになった。

1956年にフルシチョフがスターリン批判を行うと、ソ連の社会主義体制にも光明が見えてきたと感じさせた。ソルジェニーツィンはもしかしたら、自分の作品が出版できるかもしれないと、一抹の希望を抱くようになった。

1962年に「一日」を書き終えたソルジェニーツィンは、それを友人のコペーレフに示した。コペーレフは収容所でのつらい毎日をともにした同士だった。

コペーレフはこの作品を是非出版したいと思い、関係者の間を奔走した。当時はまだ検閲制度が機能していたので、出版には共産党の承認が必要だった。コペーレフたちは、思い切ってフルシチョフに作品を読ませ、検閲をクリアしようとした。幸いなことにこれを読んだフルシチョフは感動して、出版にOKを出したのである。

こうして「一日」は1963年になって、「ノーヴィ・ミール」に掲載され、瞬く間に大反響を呼んだ。しかしそれに対する共産党アパラーチキからの反撃もすさまじかった。ソルジェニーツィンは裏切り者と罵られ、監視されるようになった。折からフルシチョフが失脚しブレジネフの時代になると、ソ連は再び息の詰まるような空気に包まれた。1969年には、作家として生きていくために必要な条件だった、作家協会会員資格を剥奪された。

1970年にノーベル賞を受賞したソルジェニーツィンは、ストックホルムから招待されたが、いったん国外に出ると二度と戻れないことを恐れて、辞退した。その代り受賞受諾演説を書いてストックホルムに送った。その中でソルジェニーツィンは次のように書いた。

「収容所の移転のさなか、囚人たちの隊列に混じって、夕方の厳しい寒さの中を、暗闇を通じて流れてくる光を見ながら、全世界に向かって叫びたい思いが、胸の中から湧き上がってくるのを感じた。もし世界が我々の声を聞いてくれるなら、そうしただろう。・・・作家や芸術家には、虚偽を打ち負かす力がある。」

その頃に畢生の大作「収容所群島」を書き上げたソルジェニーツィンは、その出版準備に取り掛かった。かれは原稿のコピーをパリとニューヨークの出版社に送ったが、まず先にソ連で出版することにこだわった。ところがKGBがソルジェニーツインの秘書エリザヴェータ・ヴォロニャンスカヤを査問して、秘匿していた原稿を押収し、それを苦にしたエリザヴェータが首吊り自殺するという事件が起こった。これがきっかけになってソルジェニーツィンは作品の海外発表に踏み切る。

強制収容所の存在やその実態を取り上げることは、ソ連においてはタブーだった。このタブーをあえて犯したソルジェニーツィンを共産党政権が見逃すはずはなかった。1974年、彼は逮捕されて、国外追放の処分を受けるのである。

ソルジェニーツインはアメリカ・ヴァーモント州の片田舎に居を構え、そこで再びロシアに戻れる日を夢みていたようだ。だから彼はアメリカというものに興味を持つことができなかったし、まして理解しようともしなかった。

そんなソルジェニーツィンを、アメリカは最初、人道主義のチャンピオンとして迎え入れたが、人々は次第に彼から遠ざかっていった。ソルジェニーツィンは物腰が尊大で、言うことといえばロシアの自慢とアメリカへの不平ばかりという噂が広がったのだ。

フォード大統領も最初はソルジェニーツィンを温かく迎え、彼との会談を設けようとまで思ったが、アメリカに対するソルジェニーツィンの否定的な見方を嫌って、取りやめたほどだ。

1978年ハーヴァード大学で行ったソルジェニーツィンの講演は、彼に対するアメリカ人の見方をさらにシビアなものにした。彼はその中で、アメリカの政治システムと社会慣習を手厳しく批判し、その反面ロシア社会の美質を説いてやまなかった。そのため聴衆の軽蔑を買い、アメリカの学生ではなく、ロシア人を相手に話しているようだと、揶揄された。

1993年、ソルジェニーツィンは18年余りに及ぶ亡命生活の末、ついにロシアに戻ることができた。その時に彼が最初にしたことは、ロシアの大地に膝まづいて接吻することだった。

最晩年のソルジェニーツィンはますますロシア中心主義に傾倒していった。その結果周りのロシア人からも理解されなくなった。当のソルジェニーツィンは同時代のロシア人たちを、伝統を放擲して西欧的な悪癖に染まりつつあると、罵ってやまなかったのである。

ソルジェニーツィンの反ユダヤ主義的傾向も云々されるようになった。彼は強制収容所の全貌を暴くといいながら、そこにいた囚人たちの大部分がユダヤ人であったことにはふれていない、というのだ。

こんなわけで、ソルジェニーツィンはその生涯の最後の数年間、世界から受け入れられない存在になってしまっていた。

恐らくソルジェニーツィンは、余りにも長く生き過ぎたのだろう。だが彼の壮年期の作品は、人類の歴史に大きな足跡を刻み続けるに違いない。

(参考)Solzhenitsyn, Literary Giant Who Defied Soviets, Dies at 89 By Michael Kaufman NYT


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このページは、が2008年8月 5日 22:49に書いたブログ記事です。

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