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パリの成島柳北


横浜港を出航して1ヶ月半の船旅をした成島柳北らの一行は、明治5年(1972)10月28日にマルセーユに上陸し、11月1日未明にパリに入った。その時の感動を、柳北は次の漢詩に表現している。

  十載夢飛巴里城  十載夢は飛ぶ巴里城
  城中今日試閑行  城中今日閑行を試む
  画楼涵影淪漪水  画楼影を涵す淪漪の水
  士女如花簇晩晴  士女花の如く晩晴に簇がる

十載とは柳北が洋楽を学び、西洋に憧れを抱き始めたことを回想してのことだろう。その憧れの地にやっと立つことができた喜びが、素直に語られている。柳北はこの日に早速、パリ市街を散策し、次のような感懐をももらしている。

「巴里の市街を遊歩す、屋宇道路の美麗清潔なる、人をして驚愕せしむ」

柳北が訪れた頃の巴里は、普仏戦争を経て共和制が成立し、パリ・コミューンの動乱を克服して、政治的な安定がようやく地に付き始めていた。パリは、フランスはもとより、西洋の首都として、豪華絢爛な文化の華を咲かせつつもあった。

そんなパリでの柳北の活動振りを日記に見ると、ほとんど連日市内を遊歩して名所を訪ね、劇場や酒場での雰囲気を思う存分楽しんでいる。肝心な旅の目的についてはなんら記すところがなく、全篇これ遊びの記録といった具合だ。

柳北はパリに着くと早速背広を新調し、それを着て、意気揚々と町に出ていく。到着して一週間後の11月8日には、ブローニュの森に出かけ、一流のレストランで食事をし、夜は娼楼に遊んでいる。

「八日、この日安藤・池田二氏とボアドブロンの公園に遊ぶ、瀑布あり、極めて清幽愛すべきの地なり、ザングレイ楼に飲む、肴核頗る美なり、帰途酔に乗じて安暮阿須街の娼楼に遊ぶ、亦是鴻爪泥のみ」

着いて間もなくいったところが娼楼だったとは、いかにも「柳橋新誌」の作者らしいところである。日記にはこの後、同様の記事は一切出てこないが、柳北がこの一回限りで娼楼と縁を絶ったとは考え難い。

この翌日にはパノラマを見物し、翌々日にはワランチノの歌舞場を見物している。その後も柳北はパリ市内のいたるところに出没して、好奇心を満足させ、美食に耽り続けるのである。 

成島柳北と時を同じくして、岩倉使節団も巴里に来ていた。そこで「米欧回覧日記」に記されたパリと、柳北が記したところの巴里とを読み比べると、そこには著しい対照がある。前田愛がそれを比較分析しているので、それによりながら両者の差を読み取ってみたい。

前田愛は、明治6年1月15日から21日までの両者の行動を取り出している。この間使節団のほうは、陸軍士官学校、ヴェルサイユ宮殿、地下水道、モンヴァレヤン砲台、フォンテーヌブロー、建築学校、鉱山学校、国立銀行、ゴブラン織工場、チョコレート工場といった具合に、連日工場や学校、国家的な施設を見学している。これに対して柳北のほうは、のんびりと読書する傍ら、ルーヴル美術館、ゲーテ座、セーヌ河畔、サンシュルビス寺院などを訪ね、また旧知のシャノアーヌを訪問したりしている。

これをもとに前田愛は、「回覧使節の側には要塞と工場のパリがあり、柳北の側には劇場と美術館のパリがある」と評している。

また1月22日には、柳北は岩倉使節団に同行して、天文台、高等法院、監獄を視察しているが、これに対する「回覧日記」の反応と柳北の反応を比較すると、おのずから両者の差異が浮かび上がってくる。

回覧日記の作者がもっとも克明に記録しているのは、高等法院の組織と傍聴した公判の状況である。これに対して柳北のほうは、監獄内の様子に最も関心を示している。一人に対してひとつの部屋があてがわれ、大きな部屋に数人が入ることはあっても、寝るときは必ず独房に寝かせる配慮に感心してもいる。

前田愛は、この相違を、支配する側の論理と支配される側の論理とのすれ違いと評しているが、柳北には新体制によって支配されているといった自覚が強くあったことを示唆しているようである。実際柳北はその後、新聞紙条例を揶揄して四ヶ月の禁獄に処され、自身監獄生活を送ることになる。

成島柳北は徳川幕府の遺臣として、明治の新政権には常に距離をおいた態度をとり続けた。そんな柳北は零落したものに同情を寄せる癖が身についていたようだ。ナポレオン三世がパリに客死した報に接したときは、異常ともいえる反応を見せている。しかもその死を悼む漢詩まで作っているのである。

  勝敗何論鼠噛猫  勝敗何ぞ論ぜん鼠猫を噛むを 
  英雄末路奈粛条  英雄の末路粛条たるを奈(いかん)せん
  判他独逸新天子  判ずらくは他の独逸の新天子
  高枕而眠従是宵  枕を高くして眠ること是宵よりす

ナポレオン三世は決して人気のある君主ではなかった。栗本鋤雲などは「容貌上がらず言詞訥々」と否定的に描いているのに、ここまで同情したのは、別にナポレオン三世その人に傾倒したからではない。ナポレオン三世に没落した徳川将軍の姿を重ね合わせていたに過ぎない。


関連リンク: 日本文学覚書成島柳北






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