ライプニッツはデカルトやパスカルと同様、数学や自然科学の分野においても顕著な業績を残した。とりわけ数学の分野においては、微分積分学と記号論理学の創始者として、歴史的な業績を上げた。
ライプニッツが微分法の研究に打ち込んだのは、パリに滞在していた1675年から76年にかけてであるが、彼がパリに滞在した理由というのが振るっている。当時のフランス国王ルイ14世がドイツを侵略する計画をもっていることを知り、マインツ大司教の使いとなって、侵略の矛先をエジプトに変えるよう説得しにいったというのである。ライプニッツはこの時にかかわらず、生涯の節々で外交官のような役割を何度もつとめている。
結局フランスによるエジプト侵略は、後にナポレオンによって実現することになるが、そのことに対して、ライプニッツがどの程度の影響を及ぼしているのか、つまびらかではない。
さて、ライプニッツは連続性の概念をもとに、数の無限分割から微分法を思いついたとされる。ところがライプニッツよりも10年ほど前に、ニュートンが力学的な観点から微分法を発見していた。ニュートンはライプニッツよりも4年早く生まれただけで、二人はほぼ同時代人であった。しかし、ライプニッツはニュートンの研究のことは何も知らず、したがって微分法を取り上げる方法も、両者では異なっていた。
ライプニッツは1684年に「極大と極小にかんする新しい方法」を出版して、その中で微分法を発表し、ついで1686年に「深遠な幾何学」を出版して積分法を発表した。ニュートンが微積分法を発表するのはこれより遅れ、1687年に出版した「プリンキピア」の中でであった。
両者の研究が出揃っても、当初は互いに相手のことを気にしなかったらしい。ニュートンは1695年になってライプニッツの業績を知り、しかも微分法についてはライプニッツが草案者であるとの見方がヨーロッパで定着してさえいるのを見て、苦々しく思ったに違いないが、自分からはそれを問題にすることはしなかった。
だが周囲がそれを放ってはおかなかった。ニュートンの支持者は、ライプニッツがニュートンのアイデアを盗んだのだと口汚く罵り始めた。ニュートンもまた、それを見て見ぬ振りをした。一方ライプニッツ側も、独創性の主張を譲らなかった。こうして両陣営の論争は泥沼化し、歴史上でも有数の論戦に発展していく。
ライプニッツの暮らしていたハノーバーの君主ジョージ一世がイングランド国王になったときに、ライプニッツは同行を許されなかった。それは彼とニュートンとの論争が災いしたのだといわれている。
今から振り返れば、微分積分については、その考え方やツールの面で、ライプニッツの方に軍配が上がった形だ。今日の微積分の考えのもととなっている関数的な概念はライプニッツのものであるし、微分を表わすdx, 積分を表わすSという記号もライプニッツが用いたものである。
関連リンク: 知の快楽>ライプニッツのモナド