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ホッブスの哲学


トーマス・ホッブス Thomas Hobbes (1588-1679) は、近代的な政治思想をはじめて体系的に展開した人物として、いうまでもなく政治思想史上の偉人であるが、哲学史の上でもユニークな位置を占めている。

彼の哲学思想は、プラトン以来の伝統的な観念とは全く無縁であった。またデカルト以降の大陸の哲学者たちとも大きく異なっていた。それは一言で言えば経験を重視する態度に根ざしたものであり、ロック以降のアングロサクソン系の哲学者たちを特徴付ける経験論的なアプローチを先取りしている。

西洋の伝統的な哲学思想にあっては常に、「存在とは何か」ということが最大の問題となってきた。哲学者たちは存在の属性や様相についてあれこれと思考をめぐらしてきたのであり、存在の担い手としての実体について限りなき議論を戦わせてきた。

デカルトは人間の意識というものが持つ明証性を持ち出すことによって、存在に先立つ大事なものがあることを人々に気づかせたが、しかし最終の目的はやはり存在のゆるぎなさを確信することであった。そしてその議論の果てには、あらゆる存在の根拠であって、しかも自らが存在そのものであるもの、つまり究極の実体としての神があった。

トーマス・ホッブスはこうした議論をナンセンスなものとして、あっさりと捨て去ってしまったのである。(もっとも彼はデカルトよりも年長ではあるが)

ホッブスの思想を根底から突き動かしているのは、徹底した唯物論とその変奏曲としての唯名論である。

ホッブスはまず、「非物質的な実体」などというものはありえないと考えた。これは観念に実体性を持たせることから生まれる誤謬に過ぎない。人間の抱く観念というものは、それ自体が独立して存在できるものではなく、人間の意識の一部をなしているのに過ぎないのだ。

観念論者はある種の観念が生得的なものであることを主張することで、それが人間の意識から独立した存在であることを証明しようとする。だがよくよく分析してみると、そのような観念はどこにもない。人間は自分の経験を通じてひとつひとつの観念を獲得していくのだ。

人間というものは、生まれた当初はなんらの観念をも持っていない。観念が生ずるのは経験を通じてだ。それは人間の感覚器官の働きと、その痕跡である記憶の作用によってもたらされる。感覚の作用というものは、対象からの圧力によって引き起こされるのであり、そこには物質的な力が働いていなければならない。

このようにホッブスは人間の認識作用を、人間の感覚器官と外部の物質的な対象とが出会うことから始まると考える点で、徹底した唯物論者である。彼は人間の認識に生得的なものを認めないから、神の観念も人間が作り上げたものだと結論する。

ホッブズは、「非物質的な実体は存在しない」といい、神の観念は矛盾だらけだとする。何故なら神は物質とはおよそ無縁な存在だから。しかしこのことが「けしからぬ無神論者」として、敵に攻撃する機会を与えた。

次にホッブスは、普遍的観念というものを言葉の作用と結びつけて考える。我々はさまざまな対象に名前をつけるが、それは思考をよりスムーズにするための約束事である。我々はこの名前やさまざまな言葉を駆使することによって、抽象的な思考ができるようになる。抽象的ななかでも普遍的な観念はもっとも能率がよいので、我々はそれを用いてかなり高度な思考をすることもできる。しかしそれはあくまでも言葉の機能によるのであり、言葉がなければ観念も、まして普遍的な認識も成り立ち得ない。こう考える点では、ホッブスは伝統的な唯名論を唯物論と結びつけたのだといえる。

人間の認識作用は物質的な基礎の上に成り立っているのであるから、そこには自由で任意的な働きは起こり得ない。我々の認識作用は物質との相互作用に基づくものであり、したがって物質的な法則に支配されている。

こうした決定論的な見方は、人間の情動を巡る機械論的な見方に通じていく。

人間には生来一定の傾向としてある種の運動が備わっている。これが何者かに向かうときには欲望となり、遠ざかろうとする場合には嫌悪となる。愛とは欲望と同じものであり、憎しみは嫌悪と同じものである。そしてあるものが欲望の対象であるとき我々はそれを善と呼び、嫌悪の対象であるときは悪と呼ぶ。

また意思とは、欲望や嫌悪と異なったものではなく、それらが確固とした形をもって人間に迫る場合をさしていう。それは基本的に外的な対象に結びついている。我々は自由意志という言葉を何気なく使うが、物質的な土台と無縁な意思などはありえないのだ。

このようにみると、ホッブスは観念的なものに全く敬意を表していないように映るが、彼は一方では数学を大いに尊重していた。観念は物質的な起源を持っているとはいえ、観念相互の関係は数学の数式と似たところがある。論理学は観念相互の関係を扱う学問であるが、それは数学の考え方と大いに似ている、そう考えていた。

経験重視の態度と数学の尊重とはそれまでなかった組み合わせだ。今日では科学的な方法の王道となっているこのアプローチを、ホッブスは意識的に採用した最初の思想家だったともいえる。しかしリヴァイアサンを読んで誰もが感ずるように、ホッブスの叙述はあまりに性急過ぎるところがあって、緻密さや繊細さに欠ける憾みがないとはいえない。


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