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墨汁一滴:いのちの絶唱


子規は死の前年、明治34年の1月16日から7月2日まで「日本」紙上に「墨汁一滴」を連載した。子規の壮絶な晩年を飾る珠玉の随筆群である。

子規はすでに病状が進み、死を覚悟しながら毎日を生きるようになっていた。この年の正月に当たって子規がしたためた文章には、そんな子規の心境が飾らずに述べられている。

「明治34年は来りぬ。去年は明治33年なりき。明年は明治35年ならん。昨年は病床にありて屠蘇を飲み、雑煮を祝ひ、蜜柑を食ひ、而して新年の原稿を草せり。今年もまた病床にありて屠蘇を飲み、雑煮を祝ひ、蜜柑を食ひ、而して新年の原稿を草せんとす。知らず、明年はなほ病床にあり得るや否や。屠蘇を飲み得るや否や。雑煮を祝ひ得るや否や。蜜柑を食ひ得るや否や。而して新年の原稿を草し得るや否や。発熱を犯して筆を執り、病苦に耐へて原稿を草す。人はまさに余の自ら好んで苦むを笑はんとす。余は切にこの苦の永く続かんことを望むなり。明年一月余はなほこの苦を受け得るや否やを知らず。今年今月今日依然筆を執りてまた諸君に紙上に見ゆることを得るは実に幸なり。昨年一月一日の余は豈能く今日あるを期せんや。」

子規にはもはや生きることとは苦しみを舐めることに他ならなかった。それでも子規は苦しみが長く続くことを願う。苦しみが長く続くことは生き続けることの証に他ならなかったからだ。

この随筆群はだから、子規にとっては白鳥の歌ともいうべきものだった。子規はそれまでいろいろな形で発表していたものをすべてとりやめ、執筆活動を墨汁一滴に集中した。それゆえこの随筆集には実に幅広い内容が盛られている。歌論、俳論に始まり、絵画の鑑賞やうまい食い物の話など、毎日脳裏にうかんだことは何でも材料にした。

中でも注目すべきは、平賀元義の歌を発見して、これを源実朝、徳川宗武、井出曙覧と並ぶ大歌人として紹介したことである。また与謝野鉄幹をこき下ろし、「鉄幹是ならば子規非なり、子規是ならば鉄幹非なり。」と喝破した。

だがそれ以上に、この中で子規が達成した和歌の水準の高さは、日本の文学史上特筆されるべきものである。子規はそれを連作の形で実現した。

まず四月二十八日の記事には「藤の花」の連作を載せている。

  瓶にさす藤の花ぶさ短かければたたみの上にとどかざりけり
  瓶にさす藤の花ぶさ一ふさはかさねし書の上にたれたり
  藤なみの花をし見れば奈良のみかど京のみかどの昔こひしも
  藤なみの花をし見れば紫の絵の具取り出で写さんと思ふ
  藤なみの花の紫絵にかかばこき紫にかくべかりけり
  瓶にさす藤の花ぶさ花垂れて病の床に春暮れんとす
  去年の春亀戸に藤を見しことを今藤を見て思ひいでつも
  くれなゐの牡丹の花にさきだちて藤の紫咲きいでにけり
  この藤は早く咲きたり亀井戸の藤咲かまくは十日まり後
  八入折の酒にひたせばしをれたる藤なみの花よみがへり咲く

この連作には次のような序文がつけられている。

「夕餉したため了りて仰向けに寝ながら左のほうを見れば机の上に藤を活けたるいとよく水を上げて花は今を盛りの有様なり。艶にもうつくしきかなとひとりごちつつそぞろに物語の昔などしのばるるにつけてもあやしくも歌心なん催されける。其道には日ごろうとくなりまされたればおぼつかなくも筆をとりて」

この文にあるとおり、子規は病床に寝て仰向けになった姿勢で藤の花を見たのだったろう。だから歌の視点は低いところにある。藤の花は子規のまなざしと同じかあるいはそれより高いところにあって、あたかも畳の上にもつれかかろうとして届かない。子規はそんな藤を見ながら昔のことを思い出すのだ。

二日後の四月三十日には、次のような序文を添えて、山吹の花の連作を載せた。

「病室のガラスより見ゆる処に裏口の木戸あり。木戸の傍、竹垣のうちに一むらの山吹あり。此の山吹もとは隣なる女の童の、四五年前に一寸ばかりの苗を持ち来て、戯れに植ゑ置きしものなるが、今ははや縄もてつがぬる程になりぬ。今年も咲き咲きて、既になかば散りたるけしきを眺めて、うたた歌心起こりければ、原稿紙を手に持ちて

  裏口の木戸のかたへの竹垣にたばねられたる山吹の花
  小縄もてたばねあげられ諸枝の垂れがてにする山吹の花
  水汲みに往来の袖の打ち触れて散り始めたる山吹の花
  まをとめの猶わらはにて植ゑしよりいく年へたる山吹の花
  歌の会開かんと思ふ日も過ぎて散りがたになる山吹の花
  我が庵をめぐらす垣根隈もおちず咲かせ見まくの山吹の花
  あき人も文くばり人に往きちがふ裏戸のわきの山吹の花
  春の日の雨しき降ればガラス戸の曇りて見えぬ山吹の花
  ガラス戸の曇り払へばあきらかに寝ながら見ゆる山吹の花
  春雨のけならべ降れば葉がくれに黄色乏しき山吹の花

そして五月四日には、「しひて筆をとりて」と詞書して次の十首が載せられた。

  佐保神の別れかなしも来ん春にふたたび逢はんわれならなくに
  いちはつの花咲き出でて我が目には今年ばかりの春暮れんとす
  病む我をなぐさめがほに開きたる牡丹の花の見れば悲しも
  世の中は常なきものと我が愛づる山吹の花散りにけるかも
  別れゆく春のかたみと藤波の花の長ふさ絵にかけるかも 
  夕顔の棚つくらんと思へども秋待ちがてぬ我がいのちかも
  くれなゐの薔薇ふふみ我が病いやまさるべき時のしるしに
  薩摩下駄足にとりはき杖つきて萩の芽つみし昔思はゆ
  若松の芽だちの緑長き日を夕かたまけて熱いでにけり
  いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草花の種を撒かしむ

この連作には、前の二つと違って、共通の言葉はないが、テーマは一貫している。それは子規自身の命を見つめる視点だ。だからこの連作は「いのちの絶唱」とも名づけてしかるべきものだ。

子規はこの一連の歌の中で、自分の命が来年までといわず、秋までもつかおぼつかぬ不安を歌っているが、実際には年を越して、最後の随筆集「病床六尺」を書き続ける幸運に恵まれた。


関連リンク: 日本文学覚書正岡子規:生涯と作品

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