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痰一斗糸瓜の水も間にあはず:子規の最期


六年余りの病床生活を経て子規の病態はいよいよ抜き差しならなくなってきた。耐え難い苦痛が彼を苦しめたのである。それにともなって、「病床六尺」の記事も短くなり、また苦痛を吐くものが目立ってきた。死の直前明治35年9月12日から14日にかけての「病床六尺」には、そんな痛みが述べられている。

「百二十三 支那や朝鮮では今でも拷問をするそうだが、自分はきのう以来昼夜の別なく、五体なしといふ拷問を受けた。誠に話にならぬ苦しさである。」(9月12日)
「百二十四 人間の苦痛はよほど極度へまで想像せられるが、しかしそんなに極度にまで想像したやうな苦痛が自分のこの身に来るとはちょっと想像せられぬ事である。」(9月13日)
「百二十五 足あり、仁王の足の如し。足あり、他人の足の如し。足あり、大般若の如し。僅に指頭を以てこの脚頭に触るれば天地震動、草木号叫、女媧氏いまだこの足を断じ去って、五色の石を作らず。」(9月14日)

子規はしかし、この苦痛のさなかにあっても、頭脳の明晰と感情の抑制を失わなかった。9月14日には高浜虚子に「9月14日の朝」と題する小文を口述筆記させた。それには「病気になって以来今朝ほど安らかな頭を持ってこの庭を眺めたことはない」といい、またその庭を眺めて、「たまに露でも落ちたかと思ふやうに、糸瓜の葉が一枚二枚だけひらひらと動く」と感想をもらした。そして納豆売りがきたのを聞くと、「納豆売りでさえこの裏路へ来ることは極めて少ないのである。・・・余は奨励のためにそれを買ふてやりたくなる」といった。

9月18日には庭先の糸瓜を写生するつもりになったのだろう、傍らの画板を取り寄せると、それに句を三つ書きつけた。

  糸瓜咲て痰のつまりし仏かな
  をととひの糸瓜の水も取らざりき
  痰一斗糸瓜の水も間にあはず

これが子規の絶筆になった。その夜子規は誰にも気取られぬうちに、病床の中で静かに生きを引き取ったのである。時に明治35年9月19日の未明であった。その晩子規の家に泊まっていた高浜虚子が急を告げるために外へ出ると、十七夜の月が明るく照っていたそうである。

子規の遺骸は、友人や弟子たちによって田端の大竜寺に葬られた。葬儀の仕方が子規の意思を踏まえたものであったのは、先稿で触れたとおりである。


関連リンク: 日本文学覚書正岡子規:生涯と作品

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