天安門事件から20年

| コメント(1) | トラックバック(0)

今年は1989年におきた天安門事件から20年目の年だ。天安門広場を埋め尽くした民衆に軍が流血の弾圧を加えたのは6月4日のことだったが、その記念すべき日をはさんで、西側諸国では、この事件の意味を改めて検証し、中国に対して、大国としてふさわしい民主化への努力を求める声があがっている。

アメリカのクリントン国務長官は、中国政府に対して、この事件の真相の解明を求めると同時に、人権の擁護と民主化の徹底に向けて努力するよう釘をさした。日本ではNHKが、この事件の意味を問い直す報道を流した。

これに対して中国政府の反応は、紋切り型だ。この事件は一時的な政治風波だったとする従来の見解を繰り返し、触れて欲しくないとの本音を覗かせている。この事件をめぐって、中国向けに外国から発信されるメッセージは、一切遮断され、NHKの中国向け報道も、電波をさえぎられて、画面が真っ黒にされる始末だ。

天安門事件は、ペレストロイカの中国版として、胡耀邦ら改革派が進めてきた民主化の落とし子として起きた。

文革後政治の実権を握った鄧小平は、中国を近代国家に変えるという目的から、国民に対して一定の自由を容認した。しかしそれは、鄧小平の本音では経済的な自由に局限されるべきはずのものだった。国民の経済活動に自由を認めることで、経済を活性化し、中国を近代化させようと考えたのだ。

ところが胡耀邦らは、それを政治的な分野にまで拡大した。その結果、国民の間に言論が盛んになり、批判の矛先が共産党内の保守派に向けられるようになった。こうした事態を懸念した保守派は、鄧小平の意向をも汲んで、胡耀邦を失脚させ、自宅監禁するという挙にでた。その胡耀邦が死んだとき、彼の死を悼むという形で、自然発生的に反政府運動が湧き上がってきた。

大弾圧が起こった1989年6月4日には、反政府運動はピークに達していた。民主化の徹底を求めて数日前から北京に集まって来た民衆は、前日の夜には数万人規模にふくらんでいたが、これに対して政府側は各地から軍を集結させ、4日未明に民衆に襲い掛かった。

天安門前広場を埋め尽くした民衆は、あっという間に蹴散らされた。それ以後、強権的な弾圧が繰り返され、中国の民主化への動きは失速した。また、この動きに寛容であった趙紫陽は追放され、李鵬ら保守派が実権を握った。

この事件がおきたとき、筆者はニューズウィークなどによって、事件の詳細を知った。中国政府は、反政府デモを一方的に悪者にしたて、彼らによって兵士たちがひどい目に合わされていると、説明していたものだ。その中国政府は、この事件での死者を300人余りと発表して、今日でもそれを変更していないが、実際には数千の学生や市民が殺されたり、行方不明になっているらしい。

この事件の後、中国政府は経済成長政策に邁進し、国民を豊かにすることで、体制への不満を押さえ込もうとしてきた。実際中国政府の思惑通り、中国は驚異的な経済成長を続け、いまや大国の仲間入りをするくらいに、豊かな国になりつつある。国民は年々豊かになれるという実感に満足して、体制への批判意識も眠りがちだ。





≪ GMよ、お前もか | 世界情勢を読む | アメリカの極右過激派:ポール・クルーグマンの警鐘 ≫

トラックバック(0)

トラックバックURL: http://blog.hix05.com/cgi/mt/mt-tb.cgi/1588

コメント(1)

大変貴重なウェブサイトに感謝します。ところで、ソネット62のテキストに間違いがあります。
Beated and chopp'd with tann'd antiquity

「chopp'd」は「chapp'd」が正しいです。

よろしくお願いします。

コメントする



アーカイブ

Powered by Movable Type 4.24-ja

本日
昨日

最近のコメント

この記事について

このページは、が2009年6月 6日 21:15に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「ハナデマリ(花手鞠):花の水彩画」です。

次のブログ記事は「ストロベリーフィールズ・フォーエヴァー Strawberry Fields Forever:ビートルズの世界」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。